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小話・1
同居人である稲荷という男は、長着の袂をたすき掛けでまとめる因幡とは対照的に、浴衣に羽織なんて随分とちぐはぐな服装をだらしなく着流す。そしてその足元は季節に関わらず裸足だ。滅多に外出をしないので、人前に出ないことを考えるとそれでも一向に構わないのだけれど、見てて暑苦しい時もあれば寒苦しい時もある。
(寒いならもっと厚着すればいいのに…)
早朝、自身の腕の中で丸まった稲荷を見下ろし、心の中で呟いた。人間の体がある以上は寒暖差を感じるのだから、もう少し季節に見合った服装をしてもいいだろう。あれこれ考えるうちに頭が冴え始め、少し早いが起きてしまおうかと因幡は上半身を持ち上げた。すると、起床を妨げるように伸びた手が因幡の体を引き寄せる。
「なに、もう起きるん…?」
半分ほども開いていない目が因幡を見上げ、不服そうな声色が問いかけた。
「まだえぇやん。今日は煮売りの仕事は休みやろ?」
「だからっていつまでもだらだら寝るのは違うだろ」
「寒…湯たんぽがおらんだら俺が寝られへんやん……」
「じゃあ一緒に起きろ。てか、離せ」
「ぅん"ー!」
「この、でっかい子供がっ…!」
どこから声を出しているのか、唸る稲荷と攻防戦を繰り広げていると、下の階から人の呼びかける声が聞こえた。
「はぁーい!」
因幡は大声で返事をすると、一瞬だけ力の緩んだ稲荷を振り解き、小走りで階段を下りる。顔を出した玄関先には、因幡にとって見知った男性が立っていた。
「あっ、おはようございます。朝早くにすみません」
「いえ、全然。どうしました?」
「さつま芋のお裾分けをたくさん頂いたので、因幡さんにもと思いまして」
そう言った男性は小脇に抱えていた新聞紙の包みを差し出す。どうやら中身はさつま芋らしい。
「わざわざありがとうございます」
「あと、次の日曜日に長屋の皆さんで餅つきをするんですが、因幡さんもどうですか?」
「えっ、俺までいいですか?」
「もちろん。十二時頃から長屋の井戸端でやるので是非。稲荷さんもよかったら来てくださいね」
上の階に向かって叫んだ男性に、因幡は瞠目して玄関先へ身を乗り出す。すると、二階の窓から頭を覗かせていた稲荷が慌てて引っ込むのが見えた。
「おい、稲荷!」
挨拶の一つもない失礼に因幡は声を荒げるが、男性はまるで微笑ましいものを見るかのように笑ってくれた。
「では、僕はこれで」
因幡は手短な挨拶をして去り行く男性を見送り、新聞紙の包みを置いて二階へ上がる。目に留まった布団の塊を覗き込めば、稲荷がなんとも言えない面持ちをしていた。脱力する稲荷を引っ張り出して座らせると、一度は切ってようやく以前の長さまで伸びた髪に櫛を通す。
「今の誰?」
「煮売りの時によく通る長屋の常連さん」
「へぇー…」
自分から聞いてきたくせに興味があるのかないのか、感情のない相槌を打たれた。稲荷はこう見えて子供以外には人見知りをする性格なので、突然の訪問者に萎縮しているのかもしれない。
「長屋に住んどるわりには小綺麗な奴やなぁ。どこぞの子爵のぼんぼんかと思ったで」
「強ち間違いでもないかもな。いつも所作とか言葉遣いが綺麗だから」
階級持ちが没落するなんてのは然程珍しい話でもないから、生まれは由緒ある家柄なのかもしれない。
「それで、因幡は行くん?」
「え?」
「週末の餅つき」
「あぁ…。ハガキ屋が定休日だし、せっかくの誘いだから行くつもりだけど」
「ほんなら俺も行く」
ふと聞こえた言葉に、簪を挿しかけた因幡の手が止まった。視線を下に移すと、少しばかり上向いた稲荷と目が合う。
「いやいや、こんな寒い時期に稲荷が外に出られるわけないだろ」
「俺も行く」
再度言い切った稲荷に彼の性格を感じた。変なところで頑固で、理由を聞いても口を割らない時は本当に割らない。子供っぽいところがある性格だとは思ってはいたが、一人だけ置いていかれるのが嫌なのだろうか。そんなことを考えていると、不意に伸びた手に腕を掴まれた。瞬きをする間に布団へと引き倒され、因幡の手から簪が滑り落ちる。
「おい、危ない」
御簾のように枝垂れた髪を避けて文句を一言。しかし、稲荷は止める素振りを見せず、脈絡もなく唇が重ねられた。掌を稲荷の指先がなぞり、繰り返される口付けに双方の息が上がる。
「なぁ…朝なんだけど」
「やから?」
「朝からすることじゃないだろ」
「朝からしたらあかんなんてことはないやろ」
稲荷は因幡の躊躇う素振りなど他所に、首筋へと擦り寄る。その身体からは微かな膠と岩絵具のにおいがした。出会った当初は癖のあるにおいだと思っていたのに、後味の苦いそれが何故だか今は無性に落ち着く。こんな時ばかり寡黙になる性を憎たらしく思いながら、結局は流されるのだから因幡も同罪かもしれない。ただ、突然体温を求めた理由は分からず、分からないまま週末になってしまった。
珍しく冬の布団から素直に出た稲荷を意外に思いながら、二人は近所の長屋へと向かう。老若男女が集う長屋の催しなんて、人見知りをする稲荷には荷が重いだろうと思ったが、子供も多い所為かそれなりに打ち解けて見えた。
「稲荷さん、きな粉とあんこ両方乗せて美味しいん?」
「なに言っとんの。これが一番美味いやん」
「そのあんこ、裕坊のお母さんが炊いたんやで」
「ほんまに。裕坊の母上は小豆炊くんが上手やなぁ」
まだ小学校に上がったばかりのような子供に混じって、口の端にきな粉をつけて。これでは誰が子供か分かったものではない。
「ほら、稲荷も雑煮」
因幡は手拭いで口元を拭ってやると、汁椀を差し出した。起床時のあまりの寒さに、なにか温かい料理は作れないかと考えた結果だ。家にあった食材を掻き集めて作った即席なので具は少ないが、天盛りにした生姜や葱で多少は体が温まるだろう。因幡が他の人にも雑煮を注いでいると、長屋に住む親子の会話が聞こえた。
「あんたそんなことばっかり言ってないで、明日は学校行きなさいよ?!」
「嫌だー!」
母親から叱責を受けた祐馬は隣に座る稲荷の腕に縋る。当の本人は親子喧嘩を一瞥するだけで、我関せずと言わんばかりに餅を咀嚼していた。
「因幡さんからも言ってやってな。この子ったら最近学校に行きたがらなくて…。旦那は遅くに出来た子だからって甘いから話にならへんし」
「あはは…。裕坊、学校は行っておいた方がいいぞ?学がないと大人になった時に自分が困るから」
子供にそんな理屈を並べても仕方ないが、学校に行ったことのない側としてはそう言うしかない。因幡は学校の制度を知ってはいても、その中身に関する知識はなかった。ただ一つ言えるのは、学問を修めているだけで職の幅が広がるということ。
「流石、経験者は言葉の重みがちゃうなぁ」
稲荷は感心したように呟き、汁椀の中身を飲み干す。そんな彼を因幡は軽く睨みつけた。生い立ちを掘り下げられると面倒でしかないので、余計なことを言わないでほしい。
「ところで、裕坊の磯部餅美味しそうやね。俺にも一個くれん?」
「おい、人が真面目に話してる時に…」
「失礼やなぁ。俺やって真面目に決まっとるやん。まぁ、学校なんて大して行ってへんでなんも言えんのやけど」
稲荷は貰った磯部餅を一口齧り、祐馬の持つ絵日記帖と鉛筆に手を伸ばした。どうやらそれは学校のものらしく、今日の餅つきのことが書かれている。宿題として出されているのだろうか。最後のページを開いた稲荷は、裏表紙に迷いなく鉛筆を走らせた。
「おっ、最近の筆記帳はえらい書きやすいんやな」
「筆記帳って…稲荷さん、古いで。ノートやろ」
祐馬からの指摘はそのままに線が繋がれ、間も無くして稲荷は満足げに頷く。そこには動物の絵が三つ並んでいた。
「なんなん?この落書き」
「判じ絵(なぞなぞ)。これ持って明日は学校行き?ほんで同級生の子らに聞いてみやぁ」
訝しむ祐馬の頭を軽く撫で付け、稲荷は追加の餅を自身の皿に乗せる。人の物に落書きをするなと思いつつ、因幡はそれが絵であることの意味を知っていた。
「大丈夫。稲荷の書いた絵はツキがいい。こればっかりは俺が保証する」
因幡がそう言うと、祐馬は鼻先で小さく相槌を打つ。その効果が分かったのは翌日の夕方だった。そろそろハガキ屋の店仕舞いをしようかという頃、表から呼びかける声が飛んでくる。厨にいた因幡が戸を開けると、そこには祐馬を含めた三人の子供が立っていた。
「こんにちは!」
「こんにちは。どうした、学校帰り?」
「うん。稲荷さんおる?」
「稲荷?」
子供が三人揃ってハガキ屋に何用かと思ったが、どうやら用事があるのは稲荷らしい。背後を振り返ると、いつの間にか側に立っていた稲荷が肩口から顔を出した。
「はいはい、稲荷さんならここやで」
どうやら稲荷は祐馬たちが訪ねに来た理由が分かるらしく、驚く素振りを見せなかった。
「稲荷さんが書いた判じ絵、みんなで解いてん。答えは学校裏の神社やろ?」
「おっ、凄い。よぉ分かったな」
「同じ組の二人が一緒に考えてくれたんやで。そんでな、神社に行ってみよ思ったら、途中で右手怪我した神主さんが荷物抱えとるの見てん」
「せやから自分らが少しずつ持ったったんよ」
「そしたらお礼に畑で採れたさつま芋くれたんや」
「へぇ、そらえぇことしたなぁ」
「やから稲荷さんにあげる」
「え?」
口々に経緯を話す子供たちに相槌を打つ最中、稲荷は彼らの結末に疑問符を浮かべた。しかし、三人の顔を見る限りどうやら満場一致の答えらしい。
「なんでやねん。自分らで食べたらえぇやん」
「あかんよ。やって、あそこの神社の裏で作っとるもんは神様にお供えするんやで?」
「自分らの家に神棚あらへんし」
「やから稲荷さんにあげる」
「いや、それは…」
差し出された包みに稲荷は言葉を詰まらせる。どうやら彼らの思考は想定外だったらしい。因幡は珍しく困惑する稲荷の姿に微笑し、とあることを思いついた。
「分かった。じゃあ、それは稲荷が貰おう。裕坊たちは少し待っといて」
そう言い残した因幡は踵を返し、先ほどまでいた厨へ向かう。そして目当てのものを手に彼らの元まで戻った。
「ほら、熱いから気をつけろよ」
因幡は三人の手に油紙を持たせると、その上に蒸篭から取り出したさつま芋の蒸しパンを並べる。以前、長屋の男性から貰ったさつま芋が少し残っていたので、ちょうどおやつを作っていたところだ。蒸したての生地からは角切りのさつま芋が覗き、帰路に着く子供達の足取りを弾ませた。
「どこまで計算だった?」
祐馬たち三人を見送った後、因幡はそれとなく稲荷を振り返る。
「計算ってほどやないけど…。最近あそこの神主さんが手ぇ怪我したんは因幡から聞いとったし、畑持っとったらこの時期はさつま芋やら蜜柑なんていらんほどあるやろ」
「なるほどな。ところで、誰かさんのおかげで蒸しパンがまたさつま芋に戻ったわけだけど…」
「ごめんて」
「冗談」
少しバツが悪そうな稲荷に因幡は破顔する。
しかし、このさつま芋はどうすべきか。もう一度蒸しパンを作るほどの小麦粉は残っていないし、このまま蒸し芋にするのは少し味気ない。稲荷の好物である甘露煮にしてしまおうかと考える最中、買い足したばかりの油を思い出した。因幡は再び厨へ戻ると、少しだけ残った小麦粉を水で溶き、黒胡麻を混ぜた液に薄く輪切りにしたさつま芋を潜らせる。熱した油に落とした途端、耳触りのいい油の弾ける音が響いた。
「美味そう」
匂いを嗅ぎつけた稲荷が傍らで物欲しげに呟く。狐色に染まる天麩羅を油から上げ、味見がしたいという次に出るであろう稲荷の言葉が思い浮かんだ。
「あっ、しまった。さつま芋のお礼で一つ渡す予定だったのに、天麩羅なんかにしたら駄目だな。冷めた天麩羅なんて美味しくないし」
やはり冷めても美味しい甘露煮にすべきだったと、揚げ終えたばかりの天麩羅を前に後悔をする。どうしたものかと考えていれば、背後から伸びた腕が因幡の腰に巻き付き、どこか不貞腐れたような稲荷と目が合った。
「なんだよ。近頃は構って構ってと子供みたいに」
因幡が呆れた溜め息を吐くと、稲荷の眉間に皺が寄った。いつもは軽く聞き流す類の小言だが、今日は何故だか彼の機嫌を逆撫でたらしい。
「そんな風に言わんでもえぇやん」
「年上扱いしてほしいなら年上らしい言動をしろよ」
不満を溢す稲荷に正論を突きつければ、眉間の皺を深くさせて腕を解いた。
「そんなこと言っとると、新しいハガキの絵柄はさつま芋の天麩羅にしてやるでな!」
よく分からない脅し文句を吐き、稲荷は足音荒く厨を出て行った。その背中を因幡は怪訝な顔で見送る。正直、ハガキが売れるのならば絵柄はなんでもいい。
(てか、天麩羅冷めるし)
せっかく美味しそうに揚がったというのに、一番喜んでくれそうな相手がヘソを曲げてしまった。しかし、因幡にあまり焦りはない。今までもこんな小競り合いは何度かあって、数時間もすれば険悪な空気が過ぎ去るのがお決まりだった。
(結局いつも稲荷はなにで拗ねてたんだっけ)
因幡は思い出せない理由を探しながら明日の仕込みを始める。そして答えは見つからないまま、辺りが暗くなる頃に二階へと向かった。そこには手元の明かりだけで絵を書く稲荷の背中があり、ゆっくりと歩み寄る先で頭が持ち上がった。
「因幡、これ見て。ばり美味しそうやろ?」
稲荷はさつま芋の天麩羅が書かれたハガキを見せ、数時間前の空気など微塵も感じさせずにはにかむ。
「うん。いいと思う」
「せやろ?ちょい時期外れやけど、まぁそれはご愛嬌ってことで」
けらけらと笑う横顔を眺め、因幡はふとあることを思い出した。稲荷の腕が因幡に枝垂れさせたのは、果たして誰の話をしている時だったか。数日前は確か長屋の男性が訪ねて来た時だ。
(もしかして…嫉妬してる?)
一度そんなことに気付いてしまえば、途端に全ての辻褄が合った。あまりに幼稚で分かりにくい。しかし、好きの二文字すら口にしてこなかったのはお互い様。文机に片肘を突き、因幡は紙上を筆先で撫でる横顔を眺めた。その頬を手の甲で撫でつければ、稲荷の顔が徐に振り返る。
「稲荷にとって俺ってなに?」
唐突な質問に稲荷の目が瞬いた。そして、黄昏れの空間で薄く紅潮する頬を見る。
「そんなん…言わんでも分かるやん」
「分からないから聞いてる。こういうことしてるのだって、性欲処理なんだろうなってずっと思ってた」
今はそんな情感のない関係ではないだろうと、ぼんやりと理解はしているけれど、稲荷の口から言質を求めてしまう因幡がいた。頬を撫でた手で喉元をなぞり、詰めた距離に稲荷の肩が竦む。
「好きやなかったら、こんなことせんやろ」
観念したように溢され、満足げに微笑んだ因幡はその呼吸を奪った。畳の上を足袋が滑り、稲荷の息遣いが鼓膜を揺さぶる。口ではあれこれ言いながらも、結局はその頑固な性格や幼稚な拗ね方を嫌いにはなれなかった。これを惚れた弱みと言わずしてどうするのか。
早朝、簪の解けた髪で自身の腕に収まる姿を見て、満更でもないどころか安堵する因幡がいる。
「稲荷ー?飯よそって」
何度目かの呼びかけにようやく起きたらしい稲荷に、因幡は厨から声を張る。のそのそと隣に来た稲荷は大きく欠伸をし、味噌汁の鍋を掻き混ぜる因幡の手元に目をやった。
「あれ…天麩羅、長屋のお兄さんにお礼であげるんと違かったん?」
汁椀に入れられたさつま芋の天麩羅を指し、訝しげに問う。昨晩に揚げて、そのまま放置された天麩羅は当然冷め切っていた。
「いいんだよ。これは裕坊たちから貰ったさつま芋だから」
それは少なからず本当だった。人に渡すのに向いていない揚げ物にしてしまったから、お裾分けするにも出来なくなったというのもあるけれど。冷めた天麩羅は熱い味噌汁の具として食べるに限る。稲荷が鼻先で短く相槌を打ち、満更でもなさそうな横顔に因幡は微笑した。

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