第1話

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第1話

 この塀を飛び越えることに恐怖はなかった。何故なら自分にはもう失うものなどないから。  高くそびえ立つ塗り壁。この向こうは王が住まう宮殿だ。もちろん一般国民は立ち入ることができない。宵闇の中で、ヒカリはその輪郭を確かめるように手を添えた。てっぺんに連なる鉄柵に縄を引っ掛け、それをよじ登る。何度か失敗したのち、どうにか柵を超えて敷地内に降り立った。 「っ、わ」  土を踏み締めるつもりでいたヒカリの足は水を掻いた。予想外の出来事に驚き、体勢を崩す。派手な水音を立てて尻餅をついた。塀に沿うようにして作られた池の水位は浅く、座ったヒカリの胸辺りまでしかない。  ヒカリは慌てて身を起こした。悠長にはしていられない。今の水音で誰かに気付かれてしまったかもしれない。案の定複数の足音と話し声が近付いてくる。ヒカリは急いで立ち上がると、人気のない方へと走った。水分を含んだ衣服が重く、長衣の裾が足に絡む。  敷地内はまるで迷路のようだった。石畳で整えられた道を闇雲に駆ける。辺りは薄暗く、視界がきかない。頼りの月は雲に隠れて姿を見せない。不意に踏み締める地面の感触が柔らかな芝に変わる。ヒカリは静まり返った建物の裏手、つるりとした感触の大きな柱に身を預けた。浅い呼吸を忙しなく繰り返す。心臓は早鐘を打っていた。
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