3人が本棚に入れています
本棚に追加
栄一郎はフォードの運転席にて、美琴を恍惚とした目で眺めていると、斜向かいにて停車していたもう一台のフォードの運転手と目が合った。美琴を歌舞伎座まで送迎した運転手、長命子である。栄一郎は「女子も車の免許ば取るとは珍しい」と感心した後、徳永崎邸へと戻って行くのであった。
その長命子であるが、美琴より一歳年下の女中。昔から鷹小路邸に在しており女中としてのイロハを学んでいた。出自は北陸の雪深く貧しい農山漁村の六人兄妹の末娘である。
鷹麿が地方の視察で偶然その漁村を訪れ、そこの旅館で食べた「へしこ」を大層気に入り、作っている家に是非とも東京に定期便で届けて欲しいと頼むことにした。鷹麿がその家を訪れると、糠味噌に鯖を漬け込む一人の少女を見かけた。その少女こそが長命子である。
まだ息子(美琴)と同じぐらいの歳の娘が味噌塗れ汗まみれになって仕事をしている姿を憂いた鷹麿は主人(長命子の父親)に提案を行った「あの娘を奉公に出さぬか?」と。長命子は望まぬに産まれた末娘「あんなものでいいなら」と二つ返事で了承してしまう。
その代わりに鷹麿は長命子の家に弛まぬ支援を約束するのであった。
こうして長命子は鷹小路邸の女中になったのである。長命子は家に来た当初はただの田舎娘故に女中の仕事は何も分からずに、先輩の女中や使用人に虐められ通しの毎日。
鷹麿もそれを知ってはいたが「仕事を覚えられない方が悪い。仕事を覚えるまでの辛抱だ」と一切助けることはしなかった。長命子は何度も逐電を考えたのだが「私が逃げれば、支援は打ち切られる」と歯を食いしばり、涙を拭い耐えるのであった……
その一所懸命な姿に雲雀子も美琴も心安くし、女中と言うよりは「家族」として接するようになり、全幅の信頼を置くようになった。特に美琴は長命子より僅かではあるが年上であったことから「歳の近い妹」として見るようになっていた。長命子も美琴のことは「お館様のお坊っちゃま」と言うよりは「頼りのない大好きなお兄ちゃん」として見ていた。その念はいつしか「恋」へと変わり、女中として美琴の身の回りをしながらも、身分違いの叶わぬ恋で胸を焦がす毎日を送ることになるのであった。
当然、美琴の女装も「想い人のすることだから」と受け入れている。それが自分を雇っている鷹麿を裏切ることになろうとも…… そのぐらいに長命子は美琴のことを愛していたのであった。
最初のコメントを投稿しよう!