第二章 初恋の味を知らないモガとモボ

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 二人は耳を澄ませた。聞こえてくるのは二人の格好を嘲笑うものであった。 「歌舞伎座にモガとモボがおりますなぁ、実に似合わぬ。西洋被れもここまでくるとは」 「退廃的思想はご遠慮頂きたいものですな」 「関東大震災以降、増えましたなぁ。孑孑(ぼうふら)のようにどこから湧いてくるのかわかりませぬなぁ?」 「見ましたか、あのヒラヒラしたようなモガの服装! 乙女としての慎み深さが微塵も感じられん」 「それを言うならモボも大概なものです、日本人の平べったい体つきで西洋の背広は似合わないですなあ」  歌舞伎座に来る客層は年配が多い。そんな彼らからすればモボもモガも「西洋被れの無知蒙昧なる軽薄たる存在」に過ぎず、白眼視する者が多かったとされている。  二人の座る席は二階席で、所謂VIP席。本来であれば皇族や華族と言った選ばれた者達のみが座れる席であるが、最近は成金が金にものを言わせて権威付けのために座りに来る者が多い。 今日は運悪く、二人はそのような年配の成金達に席を取り囲まれてしまったのであった……  そのうちの一人の成金が美琴の顔をじっと眺めた。帽子(クロッシェ)を被った横顔はうら若き乙女、化粧で隠れているが素嬪(すっぴん)も美しく淑女画報やこの前電気館で見た「アントニーとクレオパトラ」のクレオパトラのような風格を漂わせている。あんな退廃的な格好をしている女であれば頭も尻も軽いだろう、この演目が終わった後に「お持ち帰り」でもしようか。そう考えて交渉に入るのであった。 その成金が美琴の前に立った。 「これ、そこな女よ。いくらだ? 百圓でも二百圓でもくれてやるから帰りに我が屋敷に来ぬか?」 また成金に絡まれてしまった。関東大震災以降は減ったと思っていたのに、まだこの手の輩が残っているのか…… 美琴は呆れたように溜息を()いた。 成金の末路。大戦景気によって成金と呼ばれる者は塵芥と現れるようになった。 だが、大正の中頃に起こった輸出品の価値の暴落による戦後恐慌により、その数は目に見えて減っていった。更には関東大震災の発生によって僅かに残った成金もその数を減らしていく。 大正時代が終わった後の話になるが、昭和の初頭に起こった世界恐慌によって成金達は夢の後、本当に極々僅かを残して大半はその息の根を止められるのであった…… 「ご遠慮しておきます」 「分からぬ女よの。ならば札束を一束くれてやろう。十年は遊んで暮らせるぞ?」 成金は懐から帯封に包まれた札束を差し出した。壱円札百枚の札束である。その帯封に銀行の名前が刻印されていたのだが、美琴にとっては鷹小路邸に年に数回の挨拶をしにくる「オジサマ」の銀行。顔見知りの銀行であった。 その「オジサマ」は銀行の頭取。頭取が自ら挨拶に来るような華族の家からすれば壱円札の札束なぞ、小金のようなものである。美琴は「可哀想な者」を見る目で成金を見つめてしまうのであった。  高小路家であるが、公卿華族ではあるが広大な領地(元は平安時代からの荘園)を持ち、大地主である。それ故に巨額の地代収入を得ることが出来ていた。公卿華族にしては珍しい資産家である。  徳永崎家であるが、武家華族であるが地方の小さな武家であるために資産はあまり持っていない。それでも紀尾井坂近辺の豪邸と、贅沢三昧たる生活の維持は出来ているため、庶民からすれば次元の違う資産家ではある。
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