第二章 初恋の味を知らないモガとモボ

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本日の歌舞伎座の昼の部は 「蘆屋道満大内鑑」別名「葛の葉」 「勧進帳」 「お夏狂乱」 以上三演目。二人は昼の部のみを観た後は、銀ブラをして本日の逢引を終わらせるつもりだったのである。 銀ブラ。銀座をブラブラ歩くの略。今日は帝劇(帝国劇場)、明日は三越と言う宣伝文句(キャッチフレーズ)が謳われる程に銀座をブラブラすることは娯楽であると言えた。  劇場内に「大太鼓」「締太鼓」「能管」の三重奏が響き渡った。開園準備が整ったことを意味する儀礼囃子である。 「お、始まりますな」 黒・柿・萌葱色の定式幕が儀礼囃子に乗って開いていく。 舞台の上におわすは安倍保名、葛の葉(本物)、葛の葉(狐が化けた偽物)、安倍童子、彼らを演ずる歌舞伎役者達とケレンを演ずる役者たち。 観客達は皆一斉に各々推しの歌舞伎役者の屋号を叫ぶ。 「いよっ! 尾張屋!」 「いよっ! 壱川屋!」 「いよっ! 伊丹屋!」 中には儀礼囃子の演奏者を推しているのか、どの屋号でもない知らぬ名を叫ぶ者もいた。  この蘆屋道満大内鑑であるが、題名に反して安倍晴明の一家を軸に話が進んでいく。 題名にもなっている蘆屋道満は主人公である安倍保名を助けるという補助的な立場に甘んじている。 舞台が進行し、最高潮(クライマックス)が訪れた。葛の葉(狐に化けた偽物)の正体がバレて逐電するシーンである。 「恋しくは 尋ね来てみよ いづみなる 信太森の うらみ葛の葉」と歌舞伎役者が涙ながらに劇場内の奥の奥にまで通る程に叫んだ瞬間、美琴は一条の涙を流していた。  それに気がついた未早矢はポケットの中から手巾(ハンカチィフ)を差し出しながら小声で尋ねた。 「よき、叫びで御座います」 美琴は手巾(ハンカチィフ)を受け取り、涙を拭った。そして、小声でその理由の説明を行った。 「母を…… 思い出したのです……」  美琴の母の未希子は京都の貧しい公家の出で、男爵家の娘であった。鷹小路家へと嫁入りをしたのは政略結婚である。彼女は体が弱く、床に伏せる日々が多かった。鷹麿が女中に手を出して雲雀子を産ませた時には離縁も考えたのだが、このか弱き体では勤めに出ることも出来ないし、公家の実家に帰ろうにも「嫁として出された身」であり、未希子の実家も侯爵家に嫁を出したことで家格が上がっている身、出戻りは許されなかった。 それ故に涙を呑んで鷹麿の妻であり続けるのであった。  やがて美琴が産まれたのだが、体が弱かった未希子は屋敷で高床(ベッド)に伏せるか、病院での入院生活の往復状態。育児は全て女中に任せきりであった。 未希子は屋敷に帰り美琴に会う度に「母として何も出来なくてごめんね」と涙を流しながら謝っていたと言う…… 美琴はその度に「会えるだけで嬉しいです」と僅かな間だけでも甘えるのであった。 その未希子も美琴が五歳の時に流行り風邪に罹患して亡くなってしまった。 奇しくも、蘆屋道満大内鑑にて葛の葉が逐電した時の安倍童子(後の安倍晴明)と同じ歳である。 美琴は母と別れる安倍童子と自分を重ね合わせてしまい、蘆屋道満大内鑑を見る度に涙を流してしまうのである。
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