第二章 初恋の味を知らないモガとモボ

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 蘆屋道満大内鑑は幕を閉じた。時の天子の息子である皇太子の后の六の君に呪詛をかけようとした石川悪右衛門が安倍保名に斬られ、その立役者である安倍童子に官位が与えられたところで、歌舞伎座全体に万雷の拍手と歓声が巻き起こった。  幕外では安倍保名と蘆屋道満と安倍晴明と葛の葉と石川悪右衛門を演じた歌舞伎役者が歩きながら深々と礼を行っていた。 観客達はそれぞれの屋号を叫びながら「おひねり」を投げていく。それを拾うは歌舞伎役者の卵と思しき少年役者。彼らがおひねりを拾い終えたところで演目台のめくりが一枚ペラリと捲られ「蘆屋道満大内鑑」から「勧進帳」に演目が移ることを観客達に知らせるのであった。 その切り替えの準備の時間を「幕間(まくあい)」と言い観客達は「幕の内弁当」を食べたり、トイレに立ったり、軽く眠ったりと思い思いの時間を過ごす。  美琴と未早矢は膝の上に幕の内弁当を乗せて、それに舌鼓を打つのであった。 この二階席はVIP席であるのは先述の通り、周りの成金達には近隣の食事処に手配した食事が届けられる。二人も普段であれば同じように手配をするのだが、今日は「気まぐれ」を起こし売店にて幕の内弁当を購入し、ついでに演目冊子(プログラム)肖像写真(ブロマイド)を購入するのであった。 この二人の華族としての地位であれば歌舞伎座の方から饗しに来てもおかしくないのだが、今日は家の方から連絡もしていない「お忍び」の身、VIP席に座る「普通のアベック」として扱われているのであった。 チケットの購入も栄一郎が二人のために、徹夜で(チケット)窓口に並んで手に入れたものである。 当時の幕の内弁当であるが、十個の握飯(にぎりめし)と卵焼・蒟蒻の一味唐辛子炒め・焼豆腐・干瓢・里芋・蒲鉾の六種類のおかずで構成されている。六種類のおかずであるが、いずれも甘辛さが強い味で、瑞々しい握り飯と合うことから箸が進むものである。 だが、美琴は軽くではあるが「物足りなさ」を感じて浮かない顔をしていた。それに気がついた未早矢が声をかけた。 「どう、なさいましたか? お口に合わないのですか?」 「い、いえ…… とても美味で御座います」 「でも、お顔の方はそうは見えませんよ?」 「い…… いや…… 私はもう少し塩辛くないと足りない舌になってしまったもので。少し口寂しく感じたのですよ」 「十分に甘くて御座いますよ?」 「いえいえ、いつもは『塩辛さ』がいつまでも口に残るものを食べていました」 「ご飯に塩でもかけてお召し上がりになられているのですか?」 「いやいや『へしこ』と言いまして、鯖を米糠漬けにしたもののことですよ」 へしことは聞いたことのない食べ物の名前である。未早矢は首をくいと傾げてしまうのであった。 へしこ。福井県を中心とした北陸地方で作られている伝統料理のことを言う。鯖などの内臓を取り出し、塩漬けにした上で更に米糠に漬け込んで作られる。北陸の冬は雪が深く厳しいために塩分とタンパク源の確保手段として好まれている。 「うちの女中長の実家から届けさせているのです。いつも樽で来るので、お分けしましょう。でも、好みがありますので…… 多分ですが未早矢さんが想像しているより塩辛いもので御座います。箸先についた糠だけでも茶碗一杯のご飯が食べられる程です」 「これは興味深い」 「そうだ! 我が家で食べて頂きましょう! これでお気に召すならお分けするという形で」
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