第一章 モガとモボの奇妙な邂逅

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成金は懐中時計を出し、現在の時刻を確認した。もうすぐ弁士が来てしまうではないか。さっさとこの小娘を退けてしまおう。 弁士。銀幕(スクリーン)の横に立ち、活動写真の内容を語る人のこと。 発声映画(トーキー)が日本へと入ってくるのは1931年、まだ少しだけ先の話となる。 成金は杖をモガに向かって振り下ろした。モガの帽子(クロッシェ)が床に叩き落される。 「ああっ!」 成金はモガの顔をじっと眺めた。ダブルラインの引かれたアイラインにアイシャドウでぼかされた目尻、本物の唇より大きく引かれたリップに、頬から耳へと続く赤いチークライン、この大正時代の標準的なモダンガールメイクである。  成金は「どいつもこいつも同じ化粧をしおって! こんなに西洋女にかぶれたいならば築地の尼寺にでも行け!」と考えながら再び杖を振りかぶった。 「今度はこの綺麗な顔に痣をつけてくれるわ! この厚化粧めが! さっさと席を退かぬか!」  この成金、日本に儒教が入ってきてから続く男尊女卑思想が今だ抜けきれぬ男。尚且つ、良妻賢母思想にも凝り固まっており「女性は家から出ずに家事だけしておればよい」と本気で考えている程であった。  周りの男達も男尊女卑思想が概念的に残っているのかモガを助ける気配はない。馬鹿な成金相手に席を譲らずに意地を張る方も馬鹿だと言う考えで、静観するのみであった。  成金は杖をモガに向かって力強く振り下ろした。モガは顔を背けて身を竦めた。 しかし、顔に痛みはない。モガが恐る恐る顔を上げると、そこにあったのはモボ(モダンボーイ)が成金の杖の先端を力強く握りしめている光景だった。風体は上から下まで瀟洒に背広を着こなした眉目秀麗たるモボ。 その姿を見たモガが思わずにときめいてしまう程の紳士であった。 モボは成金に述べた。芯の通った逞しい声と口調である。 「おい、女を殴りつけるとはどんな了簡だ?」 成金は引かない。それどころか修羅の形相でモボを睨み付けた。 「この小娘が私に席を譲らぬから悪いのだ! ええーい! この娘には折檻を加えてやらねば気が済まぬぅ! その手を放すのだ!」 モボはそれを聞き、呆れたように鼻で嘲笑った。それから握っていた杖の先端をポイと投げ捨てる。 「こんな天下の往来、それもこんなに人が集まっている電気館の中で女を叩こうなんて性根が腐ってんなぁ? あ?」 「うるさい! 私は目と耳が悪いのだ! そのような者には席を譲るのが当然というものであるのだ!」 「フツーに話も出来てるし、耳はいいじゃないか? 女を杖で殴れる以上は遠近感もちゃんとしてるじゃねぇか? ただ一番いい席で活動写真を見たかっただけだろ? 悪いのは頭だけのようだな?」
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