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「気持ちはわからなくはないけどな。生活が苦しいなか、頑張って背伸びして学区の公立随一の進学校に合格しました。だけど苦学生しながらその授業についていけるほど頭が良くはありませんでしたって、俺でもそんな辛くみじめな現実は受け止めきれないだろうからな」
お前になにがわかるってのよ。わたしは思わず右手を掲げて振り抜いた。ひっぱたきたい衝動を、止めることができなかった。
平手打ちで頬の肉を狙った右手はなぜか頬骨に掌底が当たり、自分の力とは思えない衝撃が右手に走った。
「やってくれちゃったね、傷害事件。血が垂れてるのが自分でもわかるんだけど。廣瀬、見てただろ? こいつにはたかれたの」
「ああ、そうだな」
安西の頬に青じみができ、皮膚が切れて血が垂れていた。
「ちょっと、職員室に行こうか、園田さん。さすがにこれは、水に流しきれないよ」
言い逃れる余地が無い。ここで逃げれば、事態は最悪なものとなってしまうだろう。
「失礼します。戸田先生はいますか?」
「安西と、園田か。って、安西、その頬はどうした?」
職員室に来てしまった。はたいた事実は仕方ない。事実と事情をくまなく話し、弁明となることを期待しよう。
「その件での話です。ついさっき園田さんに、廊下ではたかれました」
「園田、本当か?」
「……、はい」
言い逃れのしようがない。事実は素直に認めよう。事情を弁明させてもらおう。
「5組のまえの廊下で中学からの友人に会って挨拶していたら、園田さんにぶつかられまして。その件で軽く注意したら逆上したのか園田さんにはたかれたんです」
ここだ。この事実の歪曲こそが、わたしの弁明の余地なんだ。
「先生! 違います! わたし、以前から急いでいるときに安西くんに何度も足をかけられて転かされていたんです!」
「園田。そんな報告は、いちども耳にしていないぞ」
ちょっと待ってよ先生。わたしはなにひとつウソをついてない。
「はい、以前から何度もぶつかられていました。幸いといってはなんですが、その際はこちらに大したダメージは無く、むしろぶつかって転んだ園田さんが心配でもありましたのでそれは軽く注意する程度で穏便に済ませていました」
ふざけるな。こんな事実をねじ曲げた話、さもそうだったかのように通されてたまるか。
「そうか。園田、私にはどちらの言い分が正しいかまではわからないが、少なくともお前が安西をはたいたき暴力事件を起こしたのは間違いないな?」
「――はぃ。……」
もうここは、安西の話を鵜呑みにされなかっただけでもマシだと思わざるをえない。裏付けがないと言われるともうどうしようもない。
「先生、園田さんも大変なんだと思います。アルバイトで家計を助けながらここの授業について行くのはさぞかし大変なんだろうなと、僕は思います。
つい精神的に余裕が無くなってしまうのも仕方ないのではないかともです」
だから、わたしが自業自得でぶつかった挙げ句ヒスを起こしたとでも言いたいの? いい加減にしてよ。
「園田。やり直しがきくうちに、もう一度現状を真剣に見つめ直したほうがいいんじゃないか? 正直中間期末の結果で見ると、ここを出たところでその先は厳しいぞ」
わたしは首を横に振った。頬を涙が伝っていた。
「悪いことは言わない。大学ってのは、入るまでも入ったあとも大変な場所だ。金銭面の話でもな。そしてここは、その大変さを乗り越え頑張りきれる子たちのためにある学校だ。就職に強いところでやり直すのもテだぞ」
それは本当にそうかもしれない。でも、嫌だ。親の生前最後の記憶が、この高校に受かったことを祝福してくれた記憶だ。それに泥を塗りたくはない。
「先生、わたし、頑張りますから、どうかこの学校に居させてください」
震える喉から声を絞った。わたし、この学校を卒業したい。それが天国の両親に対する感謝の気持ちの証明だ。
「そうか。安西はどうだ? 園田のことは許せそうか?」
「そうですね。まず、謝罪の言葉は欲しいですね。もしかしたらこちらにも落ち度のあった話かもしれませんが、何よりも先に暴力を振られケガをさせられたことに関して非を認めてもらってからでないと話は難しいです」
唇が、わなわな震えているのがわかる。こんな理不尽、受け入れきれない。
「その表情が、きみの本心を示すのかな? 先生に保身のために在学を懇願することはできても、同格であるクラスメートには謝ることすらできないのが園田さんの誠意なんだね?」
誠意ってなによ、誠意って。どの口がそれを言うの?
「園田。人として最低限度の常識もわきまえないなら、この学校に居させることは出来んぞ」
これは先生最後の通告だ。たったいま、理由があれば追い出したいと言い含められたばかりだ。
謝らなければ、もう本当にこの学校には居られない。仕方ないんだと、わたしはわたしを説き伏せた。
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