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夏休み初日、小木曽肇は、いつものようにロッカー室でコック服に袖を通した。
袖の先に、汚れが付いている事に気付き、肇は顔を顰める。しかし週三回とはいえ、三ヶ月も着ていると、油汚れが取れずに残ってしまうのは仕方ない事か、と肇は思った。
レストラン『旬夏秋冬』は、肇の伯父が経営する洋食屋だ。高校生になってからツテで雇ってもらい、小遣いが稼げるので、夏休みは積極的にシフトに入りたいと思っていた。
(夏は何かと入り用だしな)
肇がコック帽をかぶると、ロッカー室に挨拶も無しに、アルバイトの志水が入ってくる。肇は一応挨拶するけども、彼は無視をした。
(別に挨拶しないからって、何か困る訳でもないし)
いつもの事だ、そう思って、肇は気にせずロッカーの鍵を掛けて、ロッカー室を出る。
すると店長の伯父が、厨房とホールの出入口で、背の高い、若い男性と話しているのに気付いた。
少し明るめの茶髪、女子が好きそうな顔をした優男は、目鼻立ちがハッキリしていて、モデルでもやれそうな顔だ。そんな彼は伯父の話を真剣に聞いている。
話し中なのでそのまま彼らをスルーして通り過ぎようとすると、伯父に呼び止められた。
「肇くん、この子、今日からホールで働いてもらう多賀くんね」
呼び止められたら無視する訳にもいかず、肇はボソボソと「よろしくお願いします」と言う。
(初対面の人は苦手だ)
自分でも人見知りで、コミュニケーションが下手だとは自覚している。こういう、突発的に知らない人と話さなきゃいけないのは避けたくて、ホールではなく厨房を希望したのだ。
多賀という人は、肇の無愛想な態度にも怒ることなく、ニッコリと微笑んだ。
「多賀湊と言います。よろしくお願いします」
「じゃあ肇くん、多賀くんに店の中案内してあげて」
「はぁ!?」
思ってもいないことを頼まれ、思わず声を上げてしまった。しかしすぐに声を落として言う。
「それ、オレがやらなきゃいけない仕事ですか?」
何でそんな事をやらなきゃいけないんだ、と思ってそう言うと、伯父は苦笑した。
「歳も近いし、お前も多賀くんの愛想の良さを見習ったらと思ったんだ。志水くんとは相変わらず険悪だろう?」
「いくら伯父でも、余計なお世話だ」
苦笑とはいえ笑っている伯父がウザイと思って、肇はそっぽを向く。
「店長は肇くんの伯父さんなんですね」
湊が笑みを浮かべて肇を名前で呼んだので、距離を詰めようと踏み込んできた湊に嫌悪感を覚え、湊を睨む。
「勝手に名前で呼ぶな小木曽って呼べ。ネームプレート見れば苗字分かるだろ」
「こら肇」
店長がたしなめる。嫌なもんは嫌だと言うと、店長はため息をついた。
「すまないねぇ多賀くん。我が甥ながらコミュニケーションに問題があってね。仲良くしてくれると助かる」
余計な事を言う店長。肇は早く話を終わらせたい、と歩き出した。
「分かりました」
湊は湊で笑顔で返事をしていた。こちらとら、仲良くやるつもりはない、と思うが面倒なので黙っておく。
「小木曽くんは、何年生?」
「高校一年」
何でまた会話をしようとするんだ、と肇は嫌な顔を隠さずに言った。しかし湊は気にした感じでもなく、「じゃあ俺の一つ下だね」とか言っている。
肇は、湊のヘラヘラした笑みが気になり、イライラした。そうなると言わずにはいられないのが、肇の悪い癖で。
「オレ、お前の事嫌いだわ。楽しくもないのに笑ってんじゃねーよ」
「……」
湊は一瞬驚いたように目を見開いた。しかしすぐにまたニコニコと笑う。
「いや、俺これがデフォルトだし」
あっそ、と肇は言う。どちらにせよ、イケメンでこれだけ酷い事を言っても怒らないのには、何か裏があるに違いない、と肇は更に警戒した。
「ロッカー室はここ。ロッカーの鍵は掛けろよ」
「はーい」
肇はそう言って、湊が着替えるのを部屋の外で待つ。
少しして湊がロッカー室から出てきた。蝶ネクタイにワイシャツ、黒のベストに前掛けと、背が高いのでとてもよく似合っている。確かこんなアニメキャラクターいたよな、と肇は連想するが、仕事中なので思考を止めた。
その後肇は厨房と事務室とトイレなど、大雑把に案内していく。これからディナーの開店なので、早めに来てくれたのはありがたいと思ったが、それは言わない。
「ホールの仕事はよく分からんから店長に聞け」
「分かった。ありがとう、小木曽くん」
そう言って湊はまたニッコリ笑う。その顔に、今度は本心からの笑顔だと分かって、肇は「ちゃんと笑えるんじゃねーか」と心の中で思った。
「どうしたの?」
「いや別に」
肇はそう言って厨房に入る。ガランとしたそこに、またか、とため息をついた。
志水が来ていたはずなのに、仕込みや準備が全くされていないのだ。彼はことあるごとに休憩と言って、裏口でタバコを吸いに行く。
フリーターの癖に使えない奴、と愚痴り、肇は準備を始める。設備や道具、材料の確認だ。
一人であらかた準備を終えた時、志水が厨房に入ってきた。タイミングを見計らっていたんじゃないかと思うけれど、言って聞くようなタイプじゃないのは知っているのでスルーする。
すると、ホールの方から黄色い声が聞こえた。見ると、湊がホールスタッフの女性に囲まれて話している。
湊は笑顔ではあるけれど、上っ面だけのように見えて、何だかイライラした。
(何でウザイって言わねぇんだ)
ヘラヘラして気持ち悪い、とか思っていると、不意に湊が肇を見た。肇は慌てて視線を外し、厨房の奥へ引っ込む。
(何かムカつく……やっぱりアイツは嫌いだ)
女性たちの賑やかな声を聞きながら、肇は作業台を台拭きで拭く。湊に彼女はいないのかとか、モテるでしょう? とか言われていて、どれにも湊は曖昧に答えていた。
(……うるせぇ)
肇はやっぱり我慢できなくなってホールへ向かう。つかつかと大股で湊たちに近づくと、女性たちは一気に静かになった。
「うるさいんでよそでやってもらえます? もう開店時間ですよね? 準備は済んでるんですか?」
すると女性たちはそそくさと自分の仕事を探し、テーブルを拭いたりし始める。取り残された湊はポカンとしており、お前も、と肇は睨んだ。
「……何をしたらいい? 先輩」
湊が優しい笑顔になる。睨まれているのに笑うとはなんだ、と思う。こうも笑顔に種類があるのか、とも思うけれど、関わりたくないので教えてやるほど優しくはない。
「自分で考えろ。それこそ女性陣に聞けば?」
そう言って、肇はまた厨房に戻った。
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