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番外編「セージの思い出」
直感した。
「弟を助けなければ」
衝動だけで走り出し、向かいの家の扉を体当たり同然に開けて、最初に目に映った弟の顔を確認すると同時に、その小さな手を掴んだ。
あとはもう、嵐の街の中をふたりでひたすら走り抜けた。
誰の姿も見なかった気がした。
実際、誰もいなかったのだ。
嵐の夜、俺たちだけが、向かい風と闘いながら走った。
俺たちの小さなふたつの影に気づく筈も無い。
本当にひどい嵐だった。
「ッ…!」
弟が何かに躓いて転んだ。
足を止めるわけにいかなかったから、俺は急いで弟を負ぶった。
ただ走った。
あの瞬間の出来事を否定するように走った。
背中の温もりだけが、俺の持つ全てだった。
「母さん…!母さん!」
ごうごうという風の音に、俺の声はかき消された。
***
嵐が過ぎた。
俺たちは、街の雑踏に身を隠して何日かを過ごした。
自分の家が見える範囲でしか遊んだことがなかったから、ここが何処なのかは分からなかった。
もしかしたら通りをいくつか違えただけで、大して遠くないのかもしれない。
でもそんなことはどうでもよかった。
あの嵐の夜に、大切なものを失った事実以外は。
嵐なんて無かったかのように、街はざわめいていて賑やかだ。
時折、誰かの袋から落ちる果実。
陳列されたバスケットからこぼれ落ちたパン。
意外と、食べるものには困らなかった。
俺は弟に優先的に食事をさせた。
こいつを守れるのは自分だけだと思った。
夜はお互いを包み込むように、市場の隅にあったボロ布を被って眠った。
「お母さん…」
時々、うなされたように漏れる弟の寝言。
俺の母さんは、あの嵐の夜に殺された。
俺が気付いた時には、母さんが台所で真っ赤に濡れて倒れていた。
その血を引きずるように、向かいの家へと道標が続いていた…
「セージ…寒いね…」
俺の名を呼ぶ小さな声。
リンは、向かいの家に住んでいて、生まれた時からずっと一緒に育ってきた。
誕生日は俺が一日早いから、俺が兄貴でリンが弟。
母さんは違うけど、同じ羽根が生えてるからきっと誰よりも近い関係なんだと思う。
俺の父さんは?と聞いた時、母さんが悲しい顔をしたから、それっきりもう聞くことはやめた。
朝は必ずアパートメントの廊下で、同じ時間に向かい合った扉を開けて、「お早う」と言って、リンとぎゅっと抱きしめ合う。
俺の母さんが仕事に行く日は、リンの母さんが俺たちの面倒を見てくれる。
その逆もある。
「もう、秋だからな」
この国は世界のいちばん北にあり、夏は短い。
秋と呼べる日も実際には数日しかない。
ひと月もしないうちに雪が降るだろう。
「リン、大丈夫か?」
抱きしめる力を強めた。
この大切な弟だけは守り抜く、そう決めたから。
***
ある日、雪がちらつき始めた。
相変わらず俺たちはボロ布一枚で過ごしている。
リンの具合が朝から悪かった。
僅かだが熱があり、俺はボロ布をしっかりとその身に巻いてやり、食べ物を探しに通りへ出た。
…とは言っても温かいものが落ちている筈もなく、俺は楽しそうに歩く親子連れを恨めしげに見つめた。
俺よりも小さな子供。
暖かそうな、毛糸のフワフワのコート。
優しく微笑んでその手を引く母親。
俺の手は無意識にその少年のポケットへ伸びていた―――
「これ、なに?」
戦利品を差し出すと、リンは珍しそうな瞳でそれを見つめる。
包み紙には「チョコレート」と書いてある…らしい。
文字は上手く読めるワケではないが、リンが言うならそうなんだろう。
「多分…食べ物?」
流石に盗んできたとは言えず、あくまでも「拾った」と言った。
とにかく、何か食べさせたかった。
包み紙の中からは、茶色い板状のモノが出てきた。
「お菓子、かな?」
「そうだな…」
「セージ、半分こしよう?」
お前だけでも食え、というのに、リンは俺にそれを押し付けてくる。
「…!おいしい!」
「うん、すげえ、おいしい!」
口に広がる初めての味は甘く、かすかに苦かった。
俺の母さんもリンの母さんも、いつも手作りのクッキーやケーキを作ってくれていたけど、これは初めて食べた。
もちろん、母さんたちのお菓子には遠く及ばないとは思うけど、
「ありがと…セージ」
微熱のあるリンの顔が、あの嵐の日から初めて喜びに綻んだ。
久しぶりに見る笑顔に、俺もすごく嬉しかった。
それからの俺は、リンに元気になって欲しくて、笑って欲しくて、子供のポケットばかりを狙った。
チョコレートは俺の大切なリンを笑顔にする。
そう信じたからだ。
「こいつだ!今、俺は見たんだ!」
「ああ、俺も見たさ!この餓鬼がこの坊ちゃんのポケットに手を入れる所を」
ある日俺は、目撃した大人数人に取り押さえられた。
「違う!これは俺のチョコレートだ!」
服の中に忍ばせた戦利品を必死で庇った。
しかしあっけなく奪われてしまう。
俺の狙った子供は、母親にしがみ付いて泣きそうな顔で俺を見る。
そんな暖かな格好で!
母親と手を繋いで!
痛いことも辛いこともしらずに、日常のほんの一瞬の出来事としてこのチョコレートを味わいもせずに飲み込むんだろう!?
殴ってやりたくなった。
しかし身動きも出来ない俺は、役人に引き渡されることになった。
「何の騒ぎだ?」
諦めて俯いた俺の頭上から、男の凛とした声が降ってきた。
俺を引き取りにきた役人だろう。
いよいよ覚悟を決めた。
「フェン・ツァンルー隊長殿!?」
俺を取り押さえていた男たちの中でも、一番身なりのいいヤツが叫んだ。
役人の名前まで知ってるってことは、それなりの身分なんだろう。
その隊長殿とかなんとか呼ばれた若い男がまた口を開いた。
「姫様の御用で城下へ出てきてみれば…捕り物か?子供じゃないか」
「は、はいッ!この小僧がうちのお客さんの買った商品を…」
「放せよッ…!」
「暴れるな、糞餓鬼が!」
地面に押し付けられた頬が冷たい。
冷たすぎて痛い。
涙が滲んできた時、隊長様の「止せ」という声で拘束が緩んだ。
その隙に逃げようとしたが、あっさり捕まってしまう。
「こら。何処へ行く」
声は静かだが、どこをどう掴まれているのかわからない。
身動きが全く取れなかった。
後に護身術の類だと知ったのだが、そんなことは知る由もない。
隊長様に首根っこを掴まれて、俺は引き渡された形になった。
白い上着に黒い腕章。
時々偉そうに通りを歩く役人連中とは少し服装が違う気がしたが、捕まったことに変わりは無い。
引き連れていた何人かと共に、リンの待つ塒へ案内させられることになった。
「セージ!」
俺を見たリンが駆けつけてくる。
「リンッ!」
俺は直ぐにリンを後ろに隠そうとした。
「ここがお前たちの…住んでいる、ところ…か?」
「ああそうだよ!」
家、と言おうとしたのだろうが、屋根も、壁すらもないただの路地。
財産はボロ布だけだ。
「セージ…この人たち…なに?」
「……っ」
リンの顔を曇らせたくはなかったが、俺は素直に事情を説明した。
「つまりお前たちのしたことは窃盗、ということになるわけだが」
隊長様は今までのなりゆきを最後まで聞いて、そう言った。
勿論、母さんたちが殺されたところからだったが、俺もリンもあまり思い出したくなかったのでかなり省略はした。
「盗みをしたのは俺だ!弟は関係ない!」
リンを罪人にはしたくない。何が何でも守らなくてはならない。
「しかし盗んだものを一緒に食べた。…これは事実だ」
「ッ…!」
ものを盗んだ時、どうなる…?
俺は母さんの言葉を必死に思い出そうとした。
「だが」
俺の思考を邪魔するように声が降って来る。
「私は、この国の第二皇女の親衛隊長である」
「…?」
「はあ…?」
何を、言おうとしているのだろう?
俺もリンも首を傾げる。
「窃盗犯を取り締まるための役職ではない。ましてや、お前たちは逮捕されて裁かれる年齢に達していない」
せいぜいが被害者に頬を叩かれて反省する子供だ、と続けた。
そっと差し出される手。
なんて大きな手。
「母を失ったと言ったな」
「…」
俺は無言で頷いた。
リンが、鼻を啜った。
「これからの季節はもっと厳しくなる…我が国民であるならば分かるな?」
「…うん」
また、頷く。
「お前たちには、暖かな部屋と服と食べ物が必要だ。そして、この冬の寒さ以上のものを乗り切る強さも必要だ」
リンと俺は顔を合わせた。
「強くなりたいか?」
その言葉は俺の中の何かを突き動かした。
差し伸べられた手を取るのに、迷う理由はどこにもなかった。
***
長い冬が過ぎ、春が来た。
俺たちは城の一室を与えられ、ツァンルー隊長に匿われるという形で生活をした。
国内の混乱を避けるため、俺たちの母さんを殺した犯人は極秘で捜査されているということを聞いた。
身の安全を保障するということで匿われたので、元の家に戻ることは許されなかった。
母さんたちの遺体は手厚く葬られたらしい。
当然、寂しさはあった。
しかし俺には弟のリンが傍にいる。
たった一つの宝物がいる。
それで良かった。
俺たちは読み書きを習い、体術を習い、礼儀作法を習った。
時々、ツァンルー隊長やほかの隊員たちが小遣いをくれたが、それは全部チョコレートに変えた。
リンと、そして街の子供たちへ配る。
そんな生活を続け、俺たちは十五歳になった。
シースナー皇国の王宮、第二皇女親衛隊員が暮らす棟の中は自由に動き回って良かったが、そうは言っても匿われているだけで何の身分もない。
俺は中庭で寝転んで空を見ていた。
「…そっか…もう、十五歳だもんな」
この国では、十五歳になると職に就くことが許される。
何か、何でもいいから自分で稼いで、隊長や皆に恩返しがしたい。
「…!」
そうだ、何で気が付かなかったんだ。
勢いよく起き上がり、弟のいる部屋へ駆け出す。
胸が弾んで、息が苦しい。
それでも、今すぐこの思い付きをリンに相談しなくては。
「リンッ!俺、いいこと思いついた!」
「セージ、僕も…」
俺たちは手を繋いで、隊長の部屋へ向かった。
もっと、強くなる為に。
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