19人が本棚に入れています
本棚に追加
番外編「リンの思い出」
直感した。
「兄の無事を確認しなければ」
でも、恐怖で足が震えた。突然開いた扉から飛び込んできた必死の顔の兄に手を掴まれた。
あとはもう、嵐の街の中をふたりでひたすら走り抜けた。
誰の姿も見なかった気がした。
実際、誰もいなかったのだ。
嵐の夜、僕たちだけが、向かい風と闘いながら走った。
僕たちの小さなふたつの影に気づく筈も無い。
本当にひどい嵐だった。
「ッ…！」
僕何かに躓いて転んだ。
足を止めるわけにいかなかったから、兄は急いで僕を負ぶった。
ただ走った。
あの瞬間の出来事を否定するように走った。
暖かな背中だけが、僕の持つ全てだった。
「お母さん…」
ごうごうという風の音に、僕の声はかき消された。
***
嵐が過ぎた。
僕たちは、街の雑踏に身を隠して何日かを過ごした。
自分の家が見える範囲でしか遊んだことがなかったから、ここが何処なのかは分からなかった。
もしかしたら通りをいくつか違えただけで、大して遠くないのかもしれない。
でもそんなことはどうでもよかった。
あの嵐の夜に、大切なものを失った事実以外は。
嵐なんて無かったかのように、街はざわめいていて賑やかだ。
時折、誰かの袋から落ちる果実。
陳列されたバスケットからこぼれ落ちたパン。
意外と、食べるものには困らなかった。
兄は僕に優先的に食事をさせた。
身をもって守ってくれているのだと実感した。
夜はお互いを包み込むように、市場の隅にあったボロ布を被って眠った。
「母さん…」
時々、漏れる兄の声。
僕のお母さんは、あの嵐の夜に殺された。
突然現れた影になす術もなく、お母さんは動かなくなった。
影は最初から赤く染まっていて、お母さんの血で更に赤くなった…
「セージ…寒いね…」
小さな声で名を呼んだ。
セージは、向かいの家に住んでいて、生まれた時からずっと一緒に育ってきた。
誕生日はセージのほうが一日早いから、セージがお兄ちゃんで僕が弟。
お母さんは違うけど、同じ羽根が生えてるからきっと誰よりも近い関係なんだと思う。
僕のお父さんは？と聞いた時、お母さんが悲しい顔をしたから、それっきりもう聞くことはやめた。
朝は必ずアパートメントの廊下で、同じ時間に向かい合った扉を開けて、セージとぎゅっと抱きしめ合う。
僕のお母さんが仕事に行く日は、セージのお母さんが僕たちの面倒を見てくれる。
その逆もある。
「もう、秋だからな」
この国は世界のいちばん北にあり、夏は短い。
秋と呼べる日も実際には数日しかない。
ひと月もしないうちに雪が降るだろう。
「リン、大丈夫か？」
僕を抱きしめる力が強くなった。
もう僕とセージしかいないから。ふたりで生きていかなくては。
***
ある日、雪がちらつき始めた。
相変わらず僕たちはボロ布一枚で過ごしている。
僕は具合が朝から悪かった。
今度はセージが風邪を引いてしまう。
むしろ、自分から伝染してしまうのではと引き止めたが、聞かずに行ってしまった。
ほんの数日前までならオープンカフェも出ていた通りも、すべて建物の内側に引っ込んでいる。
暖炉の火が眩しかった。
僕は目を閉じてセージの帰りを待った…
「これ、なに？」
見たこともない赤い包み紙。内側には銀色の紙も見える。
包み紙には「チョコレート」と書いてある。
文字を読むのが苦手なセージの代わりに読み上げた。
「多分…食べ物？」
セージもよく知らずに拾ってきたと言い、僕にその何かを差し出した。
でも食べ物は嬉しい。
「お菓子、かな？」
「そうだな…」
「セージ、半分こしよう？」
セージはお前だけでも食えと言うけれど、何か食べないといけない。
「…！おいしい！」
「うん、すげえ、おいしい！」
口に広がる初めての味は甘く、かすかに苦かった。
「ありがと…セージ」
その時、笑ったのは随分久し振りなんだと自分でも分かった。
それからセージは、チョコレートをほぼ毎日僕のところに持って帰るようになった。
僕のお母さんもセージのお母さんも、いつも手作りのクッキーやケーキを作ってくれていたけど、これは初めて食べた。
もちろん、お母さんたちのお菓子には遠く及ばないとは思うけど、僕はその味に夢中になった。
それに、僕が笑うとセージも笑ってくれた。
ある日、陽ももうすぐ沈みそうだというのに、いくら待ってもセージが帰ってこない。
気のせいか、通りが騒がしい気がする。
でもきつく「出てくるな」と言われていたので、耳だけで様子を伺うしかなかった。
言い争うような声が聞こえてきて、僕はぎくりとした。
ケンカ？
まさかセージが何かの事件に巻き込まれたんじゃないかと身を乗り出したけれど、人だかりが多すぎてよく判らない。
傍を通った人と目が合った。
その瞬間、汚いものを見るような感じで「うわ」と言われると目を逸らされ、逃げるように走っていかれた。
確かに、自分の汚らしさは嫌でも分かる。
ずっと、温かいお風呂に入れていない。
「…ッ」
涙が出そうになったその時、規則正しい何人かの足音が聞こえた。
…お城の役人だ…。
家の無い子供は引き渡されて、“ショブン”されるとセージが言っていた。
僕は怖くなって、また路地へ引っ込んだ。
「フェン・ツァンルー隊長殿！？」
そんな大きな声が響いた。
たいちょう？
偉い人かな？
ともかく、僕はセージが無事に戻ってくることだけを考えることにした。
ちらちらと騒ぎのほうを気にしていると、人だかりがまばらになり、その合間から真っ白な上着が見えた。
背の高い人で、なんとなく、その隊長という人なのだと気付いた。
「……！！」
その手には。
腕を掴まれたセージがいた。
「セージ！」
大人たちに囲まれながら連れて来られたセージに駆け寄る。
「リンッ！」
セージはすぐに僕を隠すように立ち、その人たちを見上げて睨んだ。
「ここがお前たちの…住んでいる、ところ…か？」
「ああそうだよ！」
さっき隊長と呼ばれた人が、僕たちを見て言った。
驚いているような顔だった。
「セージ…この人たち…なに？」
「……っ」
その時初めて、セージがずっと盗みをしていたのだと知った。
「つまりお前たちのしたことは窃盗、ということになるわけだが」
隊長さんは今までのなりゆきを最後まで聞いて、そう言った。
勿論、お母さん殺されたところからだったが、僕もセージもあまり思い出したくなかったのでかなり省略はした。
「盗みをしたのは俺だ！弟は関係ない！」
セージが大きな声をあげた。
「しかし盗んだものを一緒に食べた。…これは事実だ」
「ッ…！」
ものを盗んだ時、どうなる…？
僕はお母さんの言葉を必死に思い出そうとした。
「だが」
僕の思考を邪魔するように声が降って来る。
「私は、この国の第二皇女の親衛隊長である」
「…？」
「はあ…？」
何を、言おうとしているのだろう？
僕もセージも首を傾げる。
「窃盗犯を取り締まるための役職ではない。ましてや、お前たちは逮捕されて裁かれる年齢に達していない」
せいぜいが被害者に頬を叩かれて反省する子供だ、と続けた。
そっと差し出される手。
なんて大きな手。
「母を失ったと言ったな」
「…」
セージは無言で頷いた。
僕はお母さんを思い出し、鼻を啜った。
「これからの季節はもっと厳しくなる…我が国民であるならば分かるな？」
「…うん」
また、頷く。
「お前たちには、暖かな部屋と服と食べ物が必要だ。そして、この冬の寒さ以上のものを乗り切る強さも必要だ」
僕とセージは顔を合わせた。
「強くなりたいか？」
その言葉は僕の中の何かを突き動かした。
差し伸べられた手を取るのに、迷う理由はどこにもなかった。
***
長い冬が過ぎ、春が来た。
僕たちは城の一室を与えられ、ツァンルー隊長に匿われるという形で生活をした。
国内の混乱を避けるため、僕たちのお母さんを殺した犯人は極秘で捜査されているということを聞いた。
身の安全を保障するということで匿われたので、元の家に戻ることは許されなかった。
お母さんたちの遺体は手厚く葬られたらしい。
当然、寂しさはあった。
でも僕には兄のセージが傍にいる。
たった一つの宝物がいる。
それで良かった。
僕たちは読み書きを習い、体術を習い、礼儀作法を習った。
時々、ツァンルー隊長やほかの隊員の人たちがお小遣いをくれたが、それは全部チョコレートに変えた。
それを街の子供たちへ配る。セージは僕にも分けてくれた。
セージのくれるチョコレートは、あの頃と変わらず美味しい。
そんな生活を続け、僕たちは十五歳になった。
シースナー皇国の王宮、第二皇女親衛隊員が暮らす棟の中は自由に動き回って良かったけれど、そうは言っても匿われているだけで何の身分もない。
書庫から借りた本を読むのにも、少し飽きてきた。
「…そっか…もう、十五歳だもんね…」
この国では、十五歳になると職に就くことが許される。
何か、何でもいいから自分で稼いで、隊長や皆に恩返しがしたい。
「…！」
そうだ、何で気が付かなかったんだ。
本を閉じると同時に、足音がする。
きっと同じことを思いついたのだ。
今すぐこの思い付きを、セージと共有しなくては。
「リンッ！俺、いいこと思いついた！」
「セージ、僕も…」
僕たちは手を繋いで、隊長の部屋へ向かった。
もっと、強くなる為に。
最初のコメントを投稿しよう！