其の2

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其の2

意識が不思議な空間に包まれ、ふわふわとした水の中のような感覚。 どれだけ飛んだのかは判らなかったけれど、気付いた時には、リンは柔らかい草の上に立っていた。 「…着いた、のかな…?」 辺りをぐるりと見渡す。 草。樹木。 そして海。 リンの着いたところは、高い崖の上にある草原だった。 「海だ…」 普段から、海は王宮の窓から遠目に見ることはできるが、視界いっぱいに広がる光景は本でしか見たことがない。 「すごい…本当に、広いや…」 暫くぼうっと眺めていると、急に声をかけられた。 「どうしたの?」 驚いて振り向くと、農作業に使うらしい道具を抱えた年配の女性が、少し離れたところにから物珍しそうにリンを見ていた。 「見ない顔だねえ」 「っ…あの、…あの、」 初対面の相手に、懸命に声を絞り出す。 「ここは…アゼリア共和国でしょうか」 「そうよ」 「えっと…。ルナリア村はどこでしょうか」 「ああ、村なら、ちょっと離れているけど、その先の林道を抜けたらすぐだよ。この辺はルナリア村の土地だけど、ほとんど畑だからね」 女性が指をさす方向に、女性がここまで歩いてきたらしい細い道が続いている。 「ありがとうございます…」 リンは小さく頭を下げた。 「村になんの御用?お嬢ちゃん」 「おじょ…!?」 お嬢ちゃん、と呼ばれ、リンは目を見開いて表情を硬くした。 女の子に間違えられるというのは、彼が一番気にしていることなのだ。 幼少の時から近所でもよく間違われていたし、母が亡くなってツァンルーに保護された時も、暫くは勘違いされたまま女児の服を与えられていた。 「用があるなら暗くなる前に行ったほうがいいよ。夜行性の魔物が出るからね。宿はないから、村に知り合いがいるならそれに越したことはないけどねえ」 なんとか涙を堪えながら、リンは女性に再度質問をした。 「えと…、村に、シグマ・シェフレラという人はいますか…」 「シグマ?」 「…はい」 「ああ!シンちゃんね」 「…シンちゃん…?」 「シグマちゃんの呼び名よ。村の皆はシンって呼んでるから、急に本名を言われると判んないわね」 あはは、と女性は明るく笑った。 「いるわよ。神殿に行って御覧なさい。なんだ、シンちゃんの知り合いなの」 「えっと…」 「司祭様と一緒に住んでるからね。じゃあ司祭様とも知り合いなのね」 「…えっと…」 リンがどう答えようか迷っている間に、女性は木のバケツを持った手を一度リンに向けて挙げると、じゃあね、と行ってしまった。 「…人と、話せた…。僕、ちゃんとできてるよ…セージ…」 少し速くなっていた鼓動を整えるようにゆっくり息を吐き、リンは教えられた林道へ歩を進めた。 71bbede4-ba8c-4098-b1d2-6bb12829ace7 *** 林を抜けると、魔物を避けるためだろうかリンの身の丈の倍はある木製の壁と門が見えた。 その門は解放されており、先ほどの女性のように農具を持った人々が次々に出てくる。 皆一瞬、すれ違うリンに驚いたように視線を向けたが、お早う、と声を掛け林道に向かっていく。 門までたどり着き中を覗き見ると、商店の準備をする大人や、それを手伝う子供たちなど、様々な営みが賑やかにリンの視界に飛び込んでくる。 (城下と同じだ) どうやら、平和で治安のいい村らしい。 自国シースナーの城下町とは、地面が煉瓦敷きではないことや市場の規模以外、あまり変わらない。 リンはほっと息をついて門をくぐった。 (たしか…神殿…) 細い路地が多かったが、できるだけ大きく判りやすい通りを選び、村というには広い土地を見回しながら、なんとか神殿らしき建物を発見した。 神殿は、少し小高い所にあり、美しいステンドグラスに陽が反射していた。 リンは扉を勝手に開けていいか判らず、手を出したり引っ込めたりしながら迷っていると、カチャリという音がした。 瞬間的に「開く!」と思い扉に当たらないように身をずらすと、予想通り誰かが出てきた。 「おや」 「…あ…」 片眼鏡をかけた男性がすぐにリンに気付き、全身を見るように軽く視線を動かすと、優しく微笑んだ。 「お早うございます」 「…お早う、ございます」 「見かけない顔ですね。御用ですか?」 「…えっと」 ほかの村人とは違い、きっちりと糊のきいた厚手の青いローブを纏い、リンは直感的にこの神殿の関係者なのだと思った。 「ちょっと待ってくださいね。門の前だけ掃いてしまうので」 サッサッと音を立て、箒で埃を掃いてからリンに向き直った。 「それで、どうしました?」 「…あの…」 また、初めての人間と話すので一旦呼吸を整える。 「シグマ・シェフレラという人はここにいますか…」 「…シグマ。ああ、シンですね」 この男性もやはりシンと呼んでいるんだ、と頭の中で整理して。 「あの、その人に会いに来たんです…けど…」 「彼ならまだ部屋ですね。起きてはいると思うけど、朝があまり得意ではないので…良かったら中で待っていてください」 促されるままに神殿の中に入ると、沢山の椅子が並べられた広いホールに通された。 奥には祭壇が見える。 「どうぞ、適当に座って」 リンが一番手前の椅子に腰かけると、男性も隣に座ってきた。 「私はこの神殿の司祭、アスター。君は?」 「えっと…リン・ツンベルギアと言います」 「どこから来たんですか?」 「…シースナー皇国、です」 アスターは目を丸くした。 「シースナー皇国?北の大陸の魔法大国ですか!そんな所からシンにどんな御用で?」 「えっと…」 召集令状を取り出そうと鞄の中を探っていると、視界の隅に人影が見えた。 「お早うございます。司祭様」 高いところから降ってくる低い声に、リンははっと顔を上げた。 アスターに重なって、うんと上のほうに黒いものがちらりと見える。 どうやら相手は黒髪の持ち主らしい。 「お早う、シン。君にお客様がみえてますよ」 「客?」 シン―――シグマはアスターとリンの前に回り込む形で姿を現した。 黒い髪、黒い瞳、黒いズボン。 シャツこそ真っ白だったが、首から垂れているネクタイも黒かった。 左耳に着けられた細長く揺れるピアスだけが、ステンドグラス越しに差し込む光で金色に輝いている。 0588b51a-c286-4c45-a4d0-03341e90ba21 「君は誰だい?」 眉を顰めて、シグマはリンの顔をじっくり見てくる。 そんな風に誰かに見詰められたことがないので、リンは思わず顔を赤くして視線を反らした。 「えっと…、その」 「シースナー皇国から来たそうですよ」 「ふーん…?何故俺に?」 「……」 召集令状を鞄の中で握りしめたまま、いざとなると緊張してしまって言葉が出てこない。 一通り目は通しているから、何を読み上げるべきかも判っているのだが、初対面の人間を同時にふたりも前にして注目されてしまうと、体が岩か氷にでもなってしまったみたいだ。 不意にシグマがふぁ、と小さく欠伸をした。 「俺に何の用だか判らないけど、一旦朝飯を済ませてもいいかい?」 「…あ…」 リンの緊張を読み取ったらしいアスターも、シグマに続くように立ち上がった。 「良かったら、君もどうですか?もし朝食が済んでしまっているようならお茶だけでも」 「あ、えっと…はい」 *** 差し出された暖かいお茶に、リンはふうと息を吹きかけた。 「それで…?改めて、君は誰だい?」 シグマはパンを千切りながら、また正面からリンの目を捉えて聞いた。 リンはややその視線を反らし気味に、答えた。 「リン・ツンベルギアと言います…」 「シースナー皇国から来たって?」 「…はい」 「俺に、何の用で?」 そこでシグマはアスターに視線を向けたが、肝心なところが聞けていないので首を傾げられてしまう。 「えっと、」 もう一度鞄を探り、召集令状を取り出して広げて見せる。 「シグマ・シェフレラ…さん。この度、シースナー皇国第二皇女が、謁見の命により、貴殿を召集する……、します」 ところどころで自分の言葉に置き換えながら読み上げ、身分証明のバッチを掲げた。 「姫様のお婿さん候補として…、貴方を本国まで護衛します」 シグマとアスターは顔を見合わせた。 「まさか…いま、話題になっている婿候補の召集…ですか?」 「おい…待て。朝飯食べながら聞く話じゃ、ないだろ」 すぐさまアスターが近くの棚に積まれている数日分の新聞の束から、ある一部を取り出した。 大きく一面を使って、報じられている。 ウルの御触れは遠く離れた西の大陸でも話題になっているようだった。 「その…、シグマ…さんの、担当になったので」 そろそろとバッチを降ろして懐にしまいながら、申し訳なさそうにリンは小さくなる。 「一緒に来てもらえませんか…」 「成程…珍しい恰好だと思いましたが、皇女には親衛隊がいると聞いたことがあります。その制服ですか」 「いや、あのな…急に言われても」 「…ダメ、ですか…?」 掛ける言葉が見付からないシグマの代わりに、アスターがリンを宥める様に微笑みかけた。 「確かに、急なお話です。御触れは知っていましたけど…誰も我がこととは思いませんしね。…強制では、ないんでしょう?」 「…そ、そうですけど…でも」 「うん、君もお仕事なんですよね。とにかく少し、彼に時間をあげてくれませんか?」 「……じ、時間ですか…」 「せめて一日」 「…はい、それなら」 このままシグマに良い返事が貰えないまま任務失敗とはなりたくないリンは、少し安心した。 というより、断られることを想定していなかったので焦ってしまった。 「ところで、シースナー皇国からはどうやって来たんですか?ここから、行くのもかなり遠回りで旅をしないといけないですよね」 仕組みの詳しいところはリンも難しく説明が出来なかったが、転送装置の存在は理解してくれたようだった。 「流石は魔法大国だな。そんなことが出来るのか」 「じゃあ、帰りも?」 「いえ…、それには、この国にも装置がないといけないので…。帰りだけは…」 「そうですね、首都にもそのようなものがあるとは聞いたことがないですし」 シグマは一口コーヒーを啜ると、いくらか優し気な声になっていた。 「俺が断ったら、君はひとりで自国へ帰るってことか」 「…は、はい。ほかにも候補者はいますけど…でも…」 「そこでも断られる可能性もある?」 「……」 シグマを含め、ふたりを担当しなくてはならないリンだが、どちらからも断られる可能性に今更ながら気付いてしまい、下を向く。 「…もうひとりは?」 「えっと…同じ…アゼリア共和国の…アルス・オライオン…さん」 「アルス・オライオン?大統領の息子だな」 思っていなかった身分の人間の登場にシグマは驚き、じゃあ、ここの次は首都かと呟いた。 少しの間部屋の中に沈黙が続き、コーヒーを飲み干すと同時にシグマが言い放った。 「俺は一日考えさせてもらう。ただ、断るにしても、首都まではついていってやるよ」 「…!ほ、本当ですか」 「そこで大統領の息子が受け入れれば、そこからはそいつと旅をすればいいしな。あわよくば護衛が増える可能性もある」 リンに安堵の表情が浮かんだので、横でやり取りを見守っていたアスターもほっとした。 「シン、アルス氏に断られた場合は?」 少し意地悪そうににこにこと聞いてくるアスターに、シグマは少し眉を顰めた。 「…その時考える」 (司祭様は、少し面白がっているんじゃないか?) リンは調度良い温度になったお茶に口をつけた。 「どのみち首都までは距離がありますし、女の子ひとりでは危険です」 「…!!??」 「うん、流石に俺も女の子が一人旅すると判っていて見放すのはどうかと思う」 「!!!???」
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