其の4

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其の4

神殿の裏手で剣を振っていたシグマは、鍛錬を一区切りして額の汗を拭った。 風が無いので、少し暑い。 剣を鞘に納めると、草の上に腰を下ろした。 海を眺めながら、持っていた水筒から一口。 「皇女様の婿候補になっちまったそうだよ」 傍には誰もいない。 「少しだけ出掛けてくるけど、直ぐに戻るから」 目線を移動した先は、墓石だった。 *** 遡ること十年前。 偉大なる精霊・コクを祀る神殿で、青年アスターは、前司祭である叔父の後を継ぎ、司祭に就いたばかりだった。 何かに執着するということもなく育ち、村には娯楽も特になく、神殿の司祭となり人々を護るのが自分の使命だと感じて生きてきた。 遠い国々では小さな争いが頻発しているのだと聞かされ、もしこの村に火の粉が降ることがあれば、自分が身を挺して護るべきなのだと思っている。 幸い、神殿の存在のお陰で首都との関係も深く常駐する兵士もいる。 穏やかな日々を、精霊に願った。 「司祭様、おはようございます」 「おはようございます!」 緩い坂を上りながら、近くに住む姉弟が朝の挨拶にやってくる。 数ヶ月前に他国から戦火を逃れて移住してきたふたりで、両親は既にいないらしい。 姉の名はアイネ、弟の名はシグマ。 日に透かすと僅かに茶色を帯びる黒髪と、同じ色の瞳が印象的だった。 両親を亡くしているせいか、歳よりもずっと落ち着いていてしっかりした性格のアイネはすぐに村人たちに馴染み、もうずっと昔からここに住んでいるような気すら覚える。 耳には、金色に輝くピアス。それが一層彼女を大人っぽく映していた。 シグマは長剣(おそらくは父親のだろうが、アスターは聞かなかった)を腰に下げて歩いては、時折素振りをして自己鍛錬をしていた。 毎朝同じ時間に神殿にやってきて、朝の礼拝を共にしてくれた。 「シン、司祭様にあれを差し上げて」 「うん!」 畑で採れた野菜を籠に持っていたシグマは、礼拝が終わるとそっとアスターに手渡した。 「これ、今朝採れたものです」 こうやって姉弟は、時々自分達の収穫物を分けてくれた。 感謝の気持ちは、自然に、人に。 優しいアイネの心遣いは実にどこまでも行き届いていて、全てを自分達のものにせずに均等に分け与えた。 「ありがとう…、じゃあ、私からもこれを。神殿の裏で採れたオレンジです」 感化された村人達の間で、こうした物々交換はだんだんと日常になっていった。 しかしアスターだけは、他の村人達とは違った一線を引かれている。 いつでも手渡されるのは、弟のシグマからなのだ。 理由は判っていた。 異性のアイネとは、触れ合ってはいけない…。 だから、男であるシグマを介してでないと何かを受け渡すことが出来ない。 いつからか芽生えた奇妙な感覚が、今日も全身を駆け巡る。 神聖なる法衣の下で、心臓が恋慕に痛んだ。 微笑んで目を交わすことは出来るのに、その手に触れることは叶わない。 誰にでも優しく平等に接する彼女が、自分にだけ触れてくれない。 想いを伝えてはならない。 自らの立てた誓いに背いてはならない。 精霊に懺悔を捧げることも頻繁にあった。 悔しさに石造りの床を力一杯叩いて、人知れず涙した。 包帯の巻かれた手を見て彼女は駆け寄ってくれたが、手当ての出来ないもどかしさに困った顔をして見つめられた。 「ねえ、司祭様?」 シグマが鍛錬を終え、神殿の裏手から出てきて声をかけてきた。 日が沈みかけていて、海は赤く染まっていた。 「どうしました、シン」 「司祭様は…、俺の姉さんが好きなんでしょ?」 姉と同じ黒い瞳でまっすぐ見つめられ、唐突に核心に迫られてアスターは困惑した。 「…!」 「違うんですか?」 からかっている風ではない。彼は大真面目だ。 「俺の勘違いなのかなあ…」 シグマ少年は俯いて、だったらゴメンナサイ、と謝った。 「姉さんは誰にでも優しいし、村の男の人たちがみんな姉さんを好きだってことも知ってる」 みんな姉さんを見るときの目は何かが違うんだ、と続けた。 ああ、そうか…皆がアイネを欲しがっている。 村の男達が。 そして自分もその一人なのだ…と、アスターは改めて思い知った。 「すみません司祭様、違ったならいいんです。おやすみなさい」 元気に手を振る姿に、ぼうっとしたまま手を振り返す。 ふと、アスターは気付いてしまった。 叔父から司祭を引き継いだとき。 神殿の歴史の中に―――司祭を支える巫女が居たのだと。 司祭は代々男性であったし、巫女とは異性同士であるから当然触れ合うこともない。 それでも、確かな強い絆が生まれるのだという。 そしてそのふたりが同じ精霊を崇め祈ることで、この世界にはますますの加護が降り注ぐ。 しかし。 司祭は結婚してはならない。 巫女は結婚してはならない。 恋慕に身を焦がしてはならない。 身も心も清くなくてはならない。 アイネを巫女として求めるのは、いけないことなのだろうか。 無意識にアスターは包帯の巻かれた手を撫でた。 数ヶ月が経ち、首都から村の人々に、隣国で戦が始まったという報告が入った。 ルナリア村への被害は可能性に過ぎなかったが、村人達は恐れおののき、連日神殿に人が訪れた。 精霊の加護を求める声は日に日に大きくなっていった。 「司祭様、朝の礼拝の後…お話があります」 珍しくアイネが真剣な面持ちで話しかけてきた。 「何でしょう?」 「いえ、あの…。礼拝が終わってから落ち着いてお話がしたいんです」 今日は彼女が何かおかしい。 毎日見ているからすぐに判る。 「わかりました…、では、後ほど」 礼拝が終わると、アイネはシグマに先に帰るように促し、アスターを神殿の裏手へと誘った。 「司祭様、私…」 「ええ、なんでしょう、お話とは…」 朝陽が反射して、海が輝いている。 アイネの耳で揺れる金色のピアスが眩しかった。 「私、司祭様にもこの神殿にもこの村にも、とても感謝しています。私と弟を受け入れてくださったこと」 僅かだが唇が白い気がする。 「アイネ?気分が悪いのですか?」 彼女が倒れても、支えることも出来ない。 自分は触れることが出来ないから、すぐにシグマを呼び戻さなくてはならない。 「いえ、平気です…お気になさらないで」 「では…せめて座って話しましょうか?」 「いいえ…一言、お伝えしたらもう戻りますので、このままで」 緩やかな風が、ふたりの髪を揺らした。 草木が靡く音にかき消されそうなくらい小さな声で、アイネが発した言葉は。 「私を…この神殿の巫女にしてくださいませんか…?」 何秒か、または何分かの沈黙が生まれた。 アスターはやけに長く感じたが、実際どうだったのか判らない。 「アイネ…それはどういうことか、判って言っているのですか?」 「ええ…」 アスターにしては、珍しく声が荒くなった。 「私は…、私は、反対です…!」 アイネはハッと顔を上げた。 「貴女を、女性として孤独にすることは…本意ではありません…」 「司祭様…」 ほんの少しでも、髪一本ですら触れることは許されない身だからこそ、言葉ででも想いを伝えるのはこれが精一杯だった。 「でも…司祭様!戦がこのルナリア村を襲うかもしれません!」 「なぜ巫女だなどと!」 「村のおばあちゃんたちに、聞きました!昔は巫女が居たと!私は司祭様と共にこの村を護りたいのです!」 彼女はさらに、信じられない言葉を放つ。 「司祭である貴方と共に生きるには、これしかないと思ったのです!」 黒い瞳には、今にも零れ落ちそうな涙。 「貴方が司祭であるならば…。それならば私も、同じ精霊を崇め、同じ神殿に祈りを捧げるしか!」 「アイネ…」 「同じく…想いを伝えることを封じられた身で共にこの村を護り、歩んでいくしか…ないと思ったのです…」 涙が零れて、アイネの袖に滲んだ。 「…知っていたのですね…」 お互いに、直接言葉にはしない。 唯一許された、視線のみがそれを語る。 「…シグマは了解したのですか?」 すすり泣くアイネを抱きしめることも出来ないから、言葉を繋ぐ。 「いいえ…。でも、きっと判ってくれるはずです…」 村の男たちは嘆いたが、戦への恐怖、焦り、精霊に縋る気持ち、様々な人々の思いの中厳かに儀式が行われた。 ただひとりシグマだけが、法衣を纏って並ぶふたりを見て「結婚式のようだ」と呟いた。 「シグマは、私の小屋に一緒に住んでもらいましょう…。僅かな距離ですが、貴女達を離れ離れにさせたくはありません」 巫女になれば、司祭同様に異性には触れられなくなる。 たとえ血を分けた弟であっても。 それでも出来る限り近い距離に住まわせることは、アスターの最大の配慮だった。 「判っているとは思いますが、修行中…そして巫女となった暁にも」 「ええ…シンには、触れられないのですね」 「貴女達の尊い決心に見合う、精霊のご加護が与えられますように…」 「ありがとうございます、司祭様…」 アスターとアイネは揃って毎日祈りを捧げ、緊張の迫る日々を村人たちが出来るだけ心安らかに過ごせるように努めた。 しかし、日を追うごとに常駐するアゼリア共和国の兵士は増えていき、いつも届く物資のほかに武器が追加されるようになった。 炎と悲鳴が村を飲み込むまで、時間はかからなかった。 「姉さん…、姉さん!」 「シン!逃げて!」 神殿のホールにある祭壇から、精霊コクを封じている護符を抱き抱え、アイネは走った。 「精霊様…!コク様…!この護符だけは…」 「姉さん!」 「シン!私とは別の方向へ逃げなさい!」 「でもっ…!!」 アイネの背後に、敵国の兵士が放った魔法の光が迫った。 「クソッ!魔法かよ…!間に合うか!?」 シグマは必死でアイネの方へ駆け寄り、避難用の壕へ村人を避難させていたアスターも気付いて飛び出してきた。 「姉さ――――」 「アイ――――」 間に合わないと判っていても伸ばされたふたりの手が、虚しく宙を掻いた。 魔法の光がアイネを完全に包んだ瞬間、アイネの腕の中の護符が輝き、シグマとアスターは目が眩んでその場に倒れこんだ。 気が付いた時には、全てが終わっていた。 シグマは布張りのテントに寝かされていて、仲の良い村人たちが涙を流しながら目覚めを喜んでいた。 「シンちゃん、ああシンちゃん良かった…!」 「シン、生きてたか!」 頭がくらくらしたが、なんとか起き上がって周りを見渡した。 そうだ、戦が…。 「戦は、終わったよ。首都の兵士様たちが大勢来てね」 スープを差し出しながら、隣に住んでいたおばさんが状況を説明してくれた。 「アゼリア共和国は勝ったのよ。…村は、こんなになっちゃったけどね」 「…終わった?の?」 「シンちゃんが寝てたのは三日くらいだよ。スープを飲んだら、もう少し寝てなさい」 「……」 ぐるりと、再度見渡すと、シグマ以外にも何人かが寝かされていた。 視界の端にアスターの姿を見付けて、その無事にほっと息をついた。 「…姉さんは?」 *** 「…あのとき」 シグマは続けて墓石に語り掛ける。 「俺に精霊コクを預けたのは、姉さんなんだよな」 シャツの左腕を捲ると、目には判らないが不思議な力を感じる。 身を焼かれる瞬間、アイネは巫女として身につけた法で、精霊コクを護符から解き放った。 それは今まで封じられていた護符を失うとともに、新たな依り代としてシグマの左腕に宿ったのだ。 「俺はこの神殿そのもの。だから、長くはこの村を離れないよ」 右側にだけ長く残る黒髪を手で梳く。 あの頃は、姉弟揃って長く伸ばしていたが、あの戦のあとで、ひと房だけ切り残してアイネの棺に納めた。 同時に、アイネの着けていた金のピアスの片方をもらうことにした。 カサリ、と草を踏む音と人の気配を感じで振り向くと、リンが立っている。 気のせいか目が少し腫れているようだ。 「どうした?」 「…あの…、夕食の準備をするので、来てほしいと…」 「そうか。ありがとう」 服についた土を払って立ち上がると、リンの視線が墓石に向いているのに気が付いた。 「俺の、姉さんだよ」 シグマは薄く笑った。
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