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其の5
そういえば、この神殿に招き入れられてお茶を差し出されたときに違和感を感じていた。
リンは改めて、少しだけ悲しくなった。
司祭は、異性に触れてはいけないという決まりがあるらしい。
なぜかカップは、一度シグマを経由して渡された。
村を歩いているときも妙な距離を取られていた。
(女の子だと、思われてたからなんだ…)
今はそんなこともなく、ごく普通に夕食の準備を手伝っている。
「…ごめん」
真面目な顔を更に真面目にして、シグマに謝罪された。
「…いえ…」
リンも、何故かすまなそうに返す。
「もともとそのつもりだったけど、湯は君が一番先に使っていいからな」
「はあ…」
「ええと、じゃあ、そろそろ始めましょうか」
また何かの弾みで泣かせてしまわないか、アスターはやや警戒気味になっている。
三人で席につくと、アスターとシグマは指を組んで祈りの姿勢になる。
「もし良かったら、どうぞ。夕食の時だけの簡単なお祈りです」
リンも、倣って指を組んで胸の前に掲げた。
質素ながらも野菜の味が濃い食事だった。
リンが小さく「美味しい」と言ったので、アスターは柔らかく微笑んだ。
「お国の味とは違いますか」
「えっと、野菜はたくさん採れるんですけど…味が…すごく、野菜、っていうか」
「シースナー皇国は広い農地を持っているそうですが、やはり北国ですからね。環境が違うからでしょう」
それから、主にアスターから話しかけるかたちでぽつぽつと会話をし、リンは母を失ってから初めての、セージが共にいない夜を迎えた。
布団に包まって目を閉じると、遠くで波の音が聞こえた。
***
翌朝、自然に目が覚めると見慣れない部屋に居たので、リンは暫く考えてしまった。
(そうだ…お城じゃない)
着替えて階段を降りると、生活が始まっている音がする。
アスターが朝食の準備をしていた。
「あの…、お早うございます」
「お早う。よく眠れましたか?」
「はい。えっと…」
「シンは、ほら昨日もちょっと話したでしょう?朝があまり得意じゃないんですよ」
待っていましょうと食卓の椅子に促され、今度はお茶の入ったカップを直接、手渡された。
「昔は早起きだったんですけどね。ここ何年かは生活のリズムが変わってしまいまして。それでもだんだん早くなってきてはいるんですよ」
「…僕の兄も、ちょっとお寝坊さんです」
「お兄さんがいるんですか。ふふ。シンにも、姉がいましてね…」
「昨日…お墓、見ました」
「そうですか…。彼は、姉が………亡くなってから…は、少しだけやんちゃをしてましてね」
「やんちゃ?…って、何ですか?」
「ふふ、知らないならいいですよ。まあ、その、一人ぼっちになってしまったので、私が引き取りました。それからは頑張って早く起きようとはしてくれてるんですよ」
アスターは自らのカップにもお茶を入れて、そこに映る自分の姿をぼうっと眺めているようだった。
「とりあえず首都まで…、よろしくお願いします。その先はシンが決めるでしょうから、私からは何も言えずにすみませんね」
「いいえ…」
そうだ、出発前に今一度の返答を聞いて報告しないと。
リンはお茶を口に含むと、ゆっくり飲み込んだ。
階段が軋む音がして、シグマが欠伸をしながら現れた。
「お早うございます、司祭様」
「お早う、昨日より早いですね」
まだ半分閉じた黒い瞳が、ゆっくりとリンに向けられた。
「…お早う、リン」
「お、お早うございます」
怠そうにしつつも挨拶をしてくれる姿は、少しセージに似てるな、とリンは思った。
挨拶は大事だと、ツァンルーから散々言われたからだ。
シグマは自分でコーヒーを用意すると、椅子に座るころにはしっかり目が覚めていた。
「今日、出発でいいんだよな」
「あっ…?は、はい。出来れば」
「判った。いつ頃になる?」
「ええと、…本国への報告を、してから…なら」
「ん。じゃあ、君の都合で声を掛けてくれればいいよ。俺は朝飯が済んだら身支度をしておくから」
「はいっ…あの、それで…」
言いにくそうにちらちらと目線を送ると、ああ、と返される。
「俺は辞退するよ」
「…!そう、ですか…」
なんとなく、そんな気はしていたけれど。
こうもきっぱり言われると、肩を落とすのも隠せない。
「でも首都までは送る。約束だからな」
「はい…」
少しだけ気まずい朝食の後、とぼとぼと部屋に戻る背中に、シグマとアスターはそれぞれ溜息をついた。
「可哀想ですが…」
「応えられないものは仕方ないです」
「シンにとっても、気の毒だとは思ってます。この村に縛っているようで…」
「気にしないでください、司祭様」
「皇女の婿候補だなんて、本当ならとても名誉なことですよ?」
「けど、そもそも候補になっているのも、俺がコクを宿しているからでは…」
「…うーん、それはそうですけどね…」
食器を片付けながら、困ったようにアスターは笑った。
「それはそれとして、コクを護符に戻す手立ても見付けたいところですね」
精霊コクは、十年前のあの日に護符から解き放たれた。
それは巫女だけが使うことの出来る法であったようだが、その術を記した文献は燃えてしまった。
少なくとも、この村に伝わる精霊にまつわる伝承は、アスターが記憶している限りになってしまったのだ。
漸く村が復興し、農業も順調に戻ってきた。
シグマの左腕のことは、現時点ではふたりだけの秘密にしている。
村人に知られれば首都はおろか全世界に知れるのも時間の問題で、シグマを精霊と同一として、人々の信仰の対象にするわけにはいかなかった。
コクが宿っているということが明確になってからは更生したが、戦の後のシグマは自暴自棄になっていたのだろう、暫くはやんちゃ―――近隣の村の歓楽街に入り浸っていた。
素直だった少年は、笑うことが減ってしまった。
黒い服ばかり着るようになってしまった。
一生涯、姉の喪に服し黒を着るのだという。
それでもアスターは、いつかコクを手放すことが出来れば、シグマの身の自由とともに明るく生きられるのではないか…そう思っている。
***
「了解です、お疲れ様」
「お疲れ様です…」
沈んだ気持ちではあったものの朝の通信を終え、リンは布団に顔を埋めた。
例によって割り込んできたセージには声音で気付かれて心配されてしまったが、首都に着けばまた違った報告も出来るかもしれないと一生懸命明るく振舞った。
「次のことを、やらなくちゃ」
顔を上げると、布団を整える。
一泊とはいえ寝台を使わせてもらったので、シーツをどうするか考えていると、扉が叩かれた。
「私です」
アスターの声に扉を開けると、僅かに柑橘類の甘い香りがした。
「神殿の裏で採れたオレンジです。道中、食べてください」
「は、はい」
「荷造り中かと思いまして、重くなければでいいんですが」
「ありがとうございます…」
「このオレンジは戦の火を免れたこの村の宝物です。シンも、好物なんですよ」
「そうだ、僕、シンをお待たせしてますよね…!」
「ええ、さっきお祈りを終えたのでいつでも出られますよ」
貰ったオレンジで少しだけ重くなった鞄を持って、階下に降りる。
シグマは昨日見た白いシャツの上に黒い外套を着ていて、頭の天辺から靴の先まで真っ黒な出で立ちになっている。
腰には長剣を携えていた。
「このあたり、昼は安全ですが暗くなると魔物が出ます。村の領域を出たら昼でも判りませんからね」
アスターが子供に言い聞かせるように人差し指を立てて忠告した。
「君は闘える?」
シグマが、自分の剣に手を這わせて聞いた。
「…あまり、好きでは…。で、でも、護身のために、色々習いました」
「そうか、魔法は当然、習ってるよな」
「はい」
「判った。基本的には俺がなんとかする」
どちらかというとリンのほうが任務としてシグマの護衛なのだが、「首都まで送る」と言われた以上、立場が逆転してしまっているかのようだった。
そんなやりとりにアスターはふふ、と笑う。
「誰かを護ろうとする心がけ、立派ですよシン。精霊のご加護がありますように」
「…すぐに戻ります、司祭様。行ってきます」
「あ、あの、ありがとうございました。ご飯、美味しかったです」
連れ立って村の中を歩くと、また村人たちが声を掛けてくる。
「あら、昨日のお嬢ちゃん。今日はシンちゃんとお出かけ?」
「…っ」
「ちょっと、首都までお遣いに行ってくるよ」
息詰まるリンの代わりに、シグマが応える。
「…大丈夫かい?」
「…………は、い」
やれやれ、この先ひとりにしていいものかと、自分の胸の高さで揺れる白い羽根を見下ろした。
***
途中一度だけ野宿になったが、大きな街の影が見えてきた。
「ほら、あそこが首都だよ」
何度か魔物と遭遇したが、リンが何か行動をする前にシグマの長剣が一閃すると事が終わってしまい、本当にどちらが本来の護衛なのか判らない。
それほどシグマは強く鍛え上げられていた。
本当はリンだって基本的な護身の魔法と、ツァンルーやメイピンから体術の指南も受けているので自分の身は自分で護れるという気持ちはある。
ただ、シグマの剣技を見せ付けられてしまうと、どうしても護ってもらう側の立場になってしまっているようで心が沈む。
(やっぱり、すぐに動けないと駄目だ。じゃないと、ずっとシンの後ろに隠れてばっかりだし、これからも女の子と間違われちゃう…)
リンは人知れず拳を強く握った。
「あと少しだ。このまま歩ける?」
「だ、大丈夫です!」
アゼリア共和国の首都ハイドランジアは目の前だ。
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