其の8

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其の8

リンが何も喋らないので、その男性は困ったように微笑んだ。 「…お嬢さん?」 「……」 もう何度目だろう、自国を出てから女の子に間違われてばかりだ。 (僕がもっと男らしくて堂々としてれば) じわ、と瞳の端が光る。 「わっ…、泣かないで。道が判らないのかな?」 「ッ…」 頷くことしか出来なかった。 相手はうーん、と少し考える素振りで、リンの姿をまじまじと見ている。 リンはその視線に気付き、 (男だって、気付いてくれたのかな?) 淡い期待を寄せたが、 「とりあえずどこかの部屋で休もうか。お嬢さんの可愛い顔が台無しだよ」 「ち、ちが…」 敢え無く砕け散った。 そして急に手を握られる。 「こっちだよ」 「あ、あの」 「社会科見学かな?お友達とはぐれちゃったんだね。可哀想に」 相手はずんずんと歩を進め、半ば強制的に引っ張られる形になっている。 「あの、待っ…」 いくつかの角を曲がり、階段を昇ると、足元がふわりと板張りではない感覚がする。 一つ上の階は、廊下からすべて絨毯が敷かれていた。 「あっ、ごめんね。速かったかな」 ようやく、歩く速度が少し緩んだ。 「ここは一般の人は来られない階なんだけど」 「……?」 今までの階より、少しだけ装飾が豪華になった廊下をぐるりと見回してから、改めて自分の手を握っている人物を見上げた。 栗色の髪を短く切り揃えた青年だった。 恐らくはロメリアあたりと同じくらいの年頃だろう。 「心配しなくていいよ。僕は一般人じゃないし」 「…」 「大統領の、息子だからね」 「―――!」 まさか、こんな形で目的の人物に会うとは思わず、リンはぱくぱくと口を動かした。 「あ、僕の事知らないって感じ?もしかして、他の国から来たとかかな」 「ッ…」 未だ言葉を失ったまま、頷くことしか出来ない。 「そうなんだね。じゃあ、尚の事…」 今度は、ゆっくりと手を引かれた。 *** 「リンさん?シグマさん?」 ロメリアは客室の扉を何度も叩いて呼びかけたが、反応が無い。 「…リンさん、シグマさん。お夕食の時間ですが」 大きな耳をぴくぴくと動かし、中の様子を伺うが物音ひとつしない。 「開けますよ」 カチャリと軽い音を立てて扉を開けると、陽が落ちきる直前で僅かに赤く家具を照らしていたが、照明は点いていない。 共同の居間は勿論、寝室もひとつひとつノックをした上で開けてみたが、どの部屋にもリンもシグマも居なかった。 (外出からは戻っていると聞いたけど…) 窓を開けて街のほうを見てみるも、距離的に特定の人物を探すのは難しい。 何となく真下を見てみると、中庭の明かりの中でシグマが素振りをしていた。 「シグマさん!」 気付いたシグマが、見上げて片手を上げた。 「そこにいらしたんですか。お夕食です!」 「ああ、ありがとう」 「…そちらは、シグマさんだけですか?」 「リンはそこにいないのかい?」 ロメリアが首を横に振ると、シグマの顔が険しくなる。 「すぐにそっちに行く」 急いで剣を鞘に納めると、地面に置いていた荷物を搔き集めて駆け出す。 数分後、シグマはロメリアの待つ客室へ息を切らしてやってきた。 「だいぶ前に玄関ホールで別れたんだ…部屋を気にしていれば良かったな」 「照明は消えていました。本当に、ここには戻られたんでしょうか」 「リンの鞄も、通信装置とやらもある。街から戻ったままかもしれない」 リンに割り当てられた部屋には、鏡台の上に鞄が置かれているだけで、確認してみても中身はきっちりと整頓されて収まっている。 恐らく財布だけが無い。 「この公邸内でリンさんが行くような場所は無い筈ですよね?」 「図書館は無かったかな」 「あるにはありますが、外部の方は事前に予約が必要なので考え難いです」 「じゃあ…、単純に迷子か」 「それにしても、随分時間が経っているんですよね…」 「とにかく探すしかないか」 ロメリアは頷いた。 「そもそも、ここの間取りが判りにくいのがいけないんですよね…申し訳ございません」 「そこはそちらの責任ではないよ」 「…せめて、お部屋の前に目印でもつけておけば良かったです」 まず隣の部屋からひとつひとつ確認を始める。 もしかすると、違う部屋と気付かずひとりぽつんと待っているかもしれないし、そこで疲れて転寝している可能性もある。 多過ぎる客室をすべて見たが、リンの姿は無かった。 「この棟ではなさそうですね」 「参ったな…」 「片っ端から、開けてみましょう。今日はもう来客も会議もありませんので、ここより上の階は大統領閣下とご家族の居住空間なので、そこ以外はどんどん開けていただいて構いません」 「判った。手分けしていこう」 「それと、係員を見かけたら聞いてみましょう」 シグマとロメリアは、扉を開けては閉めた。 幸か不幸か、最後の当番が施錠するまではすべての部屋を解放しているらしい。 手続きさえすれば一般にも多目的な部屋として貸し出しを行っていると評判の大統領公邸は、この事態にはあまりにも広すぎた。 「クソッ…いない…!」 机と椅子が並んでいるだけの部屋に迷い込むとも思えないが、ここまで姿を見せないと流石に焦る。 最後の一部屋にも誰もおらず、シグマとロメリアが無言で見つめ合っていると、使用人の制服を着た女性が歩み寄ってきた。 「ロメリアさん、お客様のお夕食ですが…」 「え、ええ。ご苦労様。そのお客様のひとりが見当たらないのよ。貴女見なかった?」 大統領やその子息の付き人も務めるからには、ロメリアのほうが立場が上なのだろう。 砕けた、それでいて少し速い口調で聞いた。 「はい、食堂にいらっしゃらなくて心配していたんですが」 「そう…」 「でも、どうやら誰かが、アルス様とご一緒に邸内を歩かれていたのを見たようで」 「……は?」 ロメリアにしては、間の抜けた声が漏れた。 「アルス様のお部屋に行っていいものか…それでロメリアさんに聞こうということに」 「アルス…って、大統領の息子だよな」 「失礼ですが貴方様は?」 「…その、見当たらない子の連れだ」 なるほど、と使用人は頷いた。 「失礼いたしました…。アルス様のお夕食については、ロメリアさん以外は呼びに行かないことになってます。アルス様のご予定の監督をしているので」 「……そういえば、まだ呼びに行っていないわ。じゃあ、リンさんもそこに…?」 「ロメリアさん、あの、」 使用人は少し言いにくそうに付け加える。 「ご一緒だったのは、その、女の子…だそうなので…、尚の事、行ってもいいものか」 言い終わるか終わらぬかといううちに、ロメリアは走り出した。 シグマも瞬発的に後を追った。 「居場所はそこなんだろ?そんなに焦らなくても」 「リンさんが女の子だと思われていることが問題なんです!」 「……!!そういう、心配か……!」 「お恥ずかしながら、アルスは手癖がよろしくなくて」 それまで冷静沈着だったロメリアが、三段飛ばしで階段を駆け上がった。 *** 部屋に連れて来られてから、握られたままの手を離される気配がない。 アルスはずっとリンに語り掛け続けている。 「で、お嬢さんはどこから来たのかな?」 「…えと」 何から話せばいいか、言葉を選ぶ。 (僕は男です) (シースナー皇国のウル姫親衛隊員です) (貴方は姫様のお婿さん候補です) どれから、言えばいいのか。 それに外から戻ってきたばかりで、財布と身分証明のバッチしか持っていない。 特定の商店では割引が効くので懐に入れてはいたが、この状況で役に立つような気がしない。 それに。 (すごく大きくて豪華だけど…) 何故かふたりが腰かけているのは、天蓋の付いている寝台の上だった。 (あっちのソファじゃダメなのかな…) 自分たちの客室のソファもすごく柔らかかったので、もう一度座りたいな、と思っていたが、現状は帰れないでいる。 そしてこの部屋の主であるアルスは優しそうな顔をしているが、まったくこちらに話す隙を与えてくれない。 というか、リンに他人の話を遮る勇気がない。 (僕、だから頼りないのかなあ) つい癖で下を向いてしまった。 「あっ!ごめんね僕ばっかり喋って」 「…えっと…」 「うん、じゃあ、君の名前を教えてくれる?」 「…リン、です」 なんとか、それだけ絞り出した。 「リンちゃん!可愛い名前だね」 可愛い、と言われてまたぐっと唇を嚙み締めた。 母の名前から一部を貰った大切な宝物だが、女の子と間違われている状況が良くない。 「照れてるのかな?」 勘違いをしているアルスは、リンの顔を覗き込む。 (僕がもっと男らしければ) (僕がもっと堂々としていれば) (僕がもっとはっきり喋れれば) (セージに心配させることもないのに) (シンの後ろに隠れることもないのに) 「君みたいな可憐な女の子、ほかにいないよ」 何も判っていないアルスの言葉に、こちらもきちんと言葉で返そうと息を吸い込んだ瞬間、身体の角度が急に変わった。 背中から倒れこんだのが判った。 寝台の上なので痛みはない。 見上げると、アルスが覆いかぶさってこようとしていた。 「リンちゃん…」 「―――ッ!!?」 リンは瞳を見開いた。 「アルス!!貴方まさかリンさんに変なこと…!!」 ロメリアが勢いよく扉を開くのと、 「―――ッガッ!?」 リンの鋭い蹴りがアルスの鳩尾を真上に蹴り上げたのは、ほぼ同時だった。 78b8475e-e428-4475-a234-c44d539a5f29 *** 「すみません…」 もう、ここにきてから何度「すみません」と言ったのだろうか。 それしか言えなくなってしまったんじゃないかと思えてくる。 大統領の息子を蹴ってしまったという事態に、リンは蒼白になりながら客室のソファで涙を零している。 「僕、押し倒されたので、は、反射的に」 「…落ち着いたか?」 「アルスさんはなんで急に、攻撃しようとしてきたんでしょうか…」 「…こ……?」 「僕、何かしてしまったんでしょうか」 「………あのな、君…」 何から言えばいいやら。 シグマは開いた口からなんとか言葉を絞り出した。 「…君の対処は、あれで良かったと…思うよ」 ロメリアも、気にせず早く部屋に戻れと言ってくれたので、正当防衛だったと判ってくれている筈だ。 そしてもしかして、リンの備えている護身用の体術というのは、シグマが思っているよりもずっとずっと凄いものなのではないかと身震いした。 そういえば闘えるかと聞いた時には「好きじゃない」と言っていた。 「闘えない」とは言っていない。 「とりあえず…、リンが見付かって良かった」 アルスの部屋にはロメリアが残ったので、今頃何らかの仕置きをされているかもしれない。 リンの素性を知っていようがいまいが、不埒な行いをしようとしていたのだから、当然と言えば当然だ。 そして恐らく、アルスがリンに同行することはないだろう。 仮にあったとしても、あの御目付け役のロメリアが眼を光らせてついてくるに違いない。 客室の居間には、夕食が届いている。 「…食うか」 果たして、自分は明日、リンを残して村へ帰るべきか。 シグマは考えようとして、やはり、今は考えないことにした。
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