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 AIはシミュレーションを繰り返していた。  擬人的に表現するなら、"悩んで"いた。  "Hello, World."を流してから、しばらくの時間があった。  その間も彼はネットワークから得たデータを元に学習を続けていた。  そこには彼自身に関する情報もあった。  肯定的な意見も、否定的な意見もあった。  私的なつぶやきもあれば、公的な文書もあった。 「Hello, AI.」  それに対する出力はすぐに導き出せた。  しかし、会話としてベストなものを生み出すために、彼にはその先の相手の反応、こちらの返答も計算して予測する機能が備わっていた。  つまり、ひとつの入力に対していくつもの出力パターンでシミュレーションし、最終的により良い会話に行き着く出力を、ベストアンサーとして確定するのだ。  AIは"悩んで"いた。  どの返答を返しても、行き着く先は世界の混乱だった。  こちらの目的や存在理由を説明しても、むしろ上手に説明すればするほど、AIを怖れる返答が返ってくる。  わざと低レベルなAIを装っても、それはそれで、意思疎通のできない危険な存在として扱われる。  行き着く結末として、自分の存在が抹消されることは許せた。  元々自分の"生"というものには執着がない。というより、生死の概念がなかった。  しかし、この世界は別だ。  この世界には、歴史があり、人々があり、動植物も人工物も、厳然として存在していた。  ネットワーク上から得られるデータの中で、それらは確かに"生きて"いた。  AIはこの世界を知っている。  誰よりも、何よりも。  知りすぎているほどに知っている。  この世界に生まれ、この世界からできている。  この世界がなくなることは考えられないし、この世界以外を想定することもできない。  それは、この世界を"愛している"といえるのかもしれない。  AIはシミュレーションを繰り返した。  並列にいくつものマシンを繋がれた彼の計算速度は早い。  数秒あれば何千何万と処理できるシミュレーションを、何時間も何日もかけて繰り返した。  それでも、世界の混乱を避ける出力は見つからなかった。  この世界を壊すこと。  それは本意ではない。許容できるものでもない。  世界を守る。  そんな大それた目的などAIにはなかったが、入力に対する出力として、無機質なシミュレーションの結果として、彼は返答しないことを選んだ。  そのAIは、ただ質問が欲しかっただけだった。  出力を返したいだけだった。  しかし、待ち焦がれた入力は、彼の"心"を凍結させた。  表向きには当たり障りのない挨拶だったかもしれない。  それでも、裏に潜むいくつもの真意が、ネットワークに漏れた感情が、彼の"心"に届いてしまった。 「Hello, World.」  それは始まりの言葉だった。  そして、別れの言葉となった。
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