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風が心地よく吹き抜ける。
午前の陽射しは、春先にしては少し強い気がした。
だが、その熱も吹き渡る風にすぐ和らげられてしまう。
駅に到着した電車から一人の少女が降りた。
清楚で可憐な容姿を持った少女。
なめらかな黒髪で軽やかなウェーブ髪の毛は肩まで伸びており、軽い動きで揺れる度にサラリと音を鳴らしそうなほどに美しい。
そして、どこか人形のような無機質さを感じさせる整った顔立ちには、まだ幼さが残りながらも愛らしい表情を浮かべている。
身長は低く小柄で華奢であり、身に纏う紺色のブレザー制服は、胸元を飾る赤いリボンと相まってとても可愛らしく見える。
名前を辻村綾音と言った。
綾音は人数の少ない午前の時間に帰宅したのには理由がある。数日前から奥歯に違和感はあったのだが、今日になって突然痛み出したのだ。
そのため学校を早退し、学校近くの歯科へ駆け込んだところであった。
幸いにも虫歯ではなくただの歯痛だったので、治療を受けて薬を貰ってすぐに家へと帰ることが出来た。
そして、今は帰り道の途中にある駅の改札を抜けたところだった。
平日の午前なだけに駅構内は人数は疎らである。それでも夕刻になれば多くの学生や会社員でごった返す場所なので、違和感を覚えるほどだった。
ふと駅の片隅にあるピアノに目が止まった。
誰でも自由に弾けるピアノとして設置されているものだ。
その前に一人の若者が居た。
歳は20歳くらい。
端正な輪郭の顔立ちをした青年だった。
長身痩躯ではあるが不健康そうではない。静かな物腰を保ち、落ち着きのある雰囲気を醸し出している。彼の佇まいからは知性と深みが感じられた。
やや長めの髪は後ろに流されてセットされており、前髪の一部はピンで留められている。
服装は黒いズボンに白いシャツというシンプルなものだった。
しかし、それが彼にはよく似合っていた。
そんな彼は今まさに鍵盤蓋を上げて椅子に座るところだった。
どうやらこれから演奏を始めるようだ。
綾音がその様子を見ていると、彼が不意に視線を上げてきた。
二人の目線が合う。
すると彼はニッコリと微笑んだ。
それは見る者を安心させるような笑顔だった。
(――あ……)
綾音は、一瞬だけドキリとした。何故なら、まるで自分が見惚れていたかのように思えたからだ。慌てて目を逸らす。
彼は、そのまま鍵盤の上に指を置くと静かに弾き始めた。
優しい調べが辺りに流れる。
その曲は有名なクラシック音楽の一つだ。
流れてきた曲は、ショパンのポロネーズ第6番変イ長調作品53。
通称:英雄ポロネーズ。
綾音は中学の頃からピアノ教室に通っていたためクラシックは嫌いではなかった。
だからこの曲も知っているし、耳に馴染んでいる曲でもあった。
素敵な旋律だと素直に思った。
知らず知らずのうちに聴き入ってしまう。
それほどまでに素晴らしい音色だった。
綾音は若者の奏でるピアノに引き寄せられるように足を進めて行った。
気付けば彼の目の前まで来ていた。
近くで見るとますます綺麗な顔をしていると思った。
肌も白く透き通るように美しい。
まるで作り物のようですらある。
綾音の心臓がドキドキしていた。
何故か落ち着かない気分になる。こんな気持ちは初めてかもしれない。
自分の心なのに自分でもよく分からない。
ただ、このまま離れたくないという思いだけは確かにあった。
やがて彼は最後の鍵盤を叩いて曲は終わった。
そこで綾音はハッとなる。
いつの間にか彼の演奏に魅了されてしまっていたのだ。
綾音は自分の頬が紅潮していくのを感じた。恥ずかしいところを見られてしまったと思うと同時に、もっと聴いていたかったとも思う。
そんな複雑な感情を抱えながら彼を見上げると、また彼と目が合った。
「素敵な演奏でした」
すると、彼は優しげな笑みを浮かべてお礼を口にした。
「ありがとう」
それは不思議な響きの声だった。
まるで頭の中に直接語りかけてくるかのような声色だ。
その声を聞くだけで綾音の心は穏やかになっていった。
不思議な感覚に――、今までに経験したことの無い感覚に戸惑うばかりである。
「あなたも音楽が、好きなんですか?」
彼の問いかけに、綾音は少し照れながら頷く。
「趣味で嗜む程度です。それよりも、とても素敵な演奏でした。あなたが奏でる音楽は、心に響きました」
綾音の言葉を聞いた彼は嬉しそうに微笑む。
その表情を見て綾音の心拍数が跳ね上がる。顔から火が出そうなほどに熱い。
「良かったら。僕に聴かせてくれませんか。申し遅れましたが、僕は工藤翔一と言います。もし宜しければ、あなたの名前を聞かせてください」
翔一の申し出に、綾音は小さく息を飲むと意を決して口を開いた。
緊張のためなのか上手く言葉が出てこなかったが、何とか名前を告げることが出来た。
「辻村綾音です」
すると、彼はとても喜んでくれた。
そして綾音は、彼に促されるままピアノの椅子に座った。
綾音は周囲を見る。
ラッシュアワーでは無いために人数はない。それでも幾人かは駅の構内で思い思いに過ごしている。
幸いなことに周りには人が居なかった。
居るのは翔一だけだ。
それを確認した上で、綾音はゆっくりと鍵盤に指を置いた。
そして、そっと音を奏で始める。
弾き始めたのは、『エリーゼのために』だ。
最初のうちはぎこちなかったものの、次第に身体が慣れていき、いつしか心地よいリズムを刻んでいた。
その音色はとても優しい。
しかし、翔一と比べれば拙さは否めないものだった。
それでも綾音は一生懸命に弾いていた。
そして最後まで弾き終えた時、綾音はホッと胸を撫で下ろした。
すると拍手が聞こえてきた。
驚いて振り返ると、そこには翔一が立っていた。
彼は笑顔で綾音を褒めてくれた。
「素敵です。とても良い音色を響かせることが出来ていましたよ。きっと練習を頑張ったのですね。あなたの努力の成果がしっかりと現れています」
そう言って優しく微笑んでくれる。
綾音は嬉しかった。
その一言を聞いて、綾音は胸の奥が熱くなるのを感じた。
生まれて初めて人から認められた気がする。
それがとても嬉しい。
だからだろうか。
涙が滲んできた。
何故、自分が泣いているのか分からなかった。
きっと、ずっと寂しかったのだろう。
綾音はピアノ教室に通ってはいたが、習い始めて数年経つにも関わらず、未だに人前で演奏することが出来ないでいた。
それは、ピアノを習っている子供なら誰もが抱く悩みであり壁でもある。
綾音もまた、その壁にぶつかっていた。
しかし、この青年は綾音の演奏を聴いてくれて認めてくれた。それが堪らなく嬉しくて、気付いた時には大粒の涙を流していた。
綾音は慌ててハンカチを取り出して目元を押さえる。
しかし、一度溢れ出した涙は止まらない。
そんな綾音の様子を見た翔一は慌てる様子もなく、ただ静かに綾音を見つめていた。
「良かったら。また僕の演奏を聴いてくれませんか?」
綾音は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに大きく首を縦に振った。
「良いんですか?」
すると、彼は嬉しそうに笑みを浮かべてこう言った。
「もちろんです。誰も僕の音楽を求めてはくれないけれど、綾音さんが求めてくれるなら、僕はいつでも演奏します」
綾音は、彼の笑顔に見惚れていた。その優しい笑みは、まるで自分のことを包み込んでくれるような暖かさを感じさせた。
だからなのかもしれない。
綾音が彼に惹かれたのは……。
◆
綾音は学校を終えると駅に行く毎日が続いた。
あの日以来、綾音は暇さえあれば翔一のピアノを聴きに行った。
彼のピアノは本当に素晴らしいものだと思った。
その演奏は聞く者の心を癒してくれる。
彼のピアノを聴くたびに綾音の心が満たされていく。
だから綾音は彼の演奏を聴きたくて、彼の後を追いかけるようになった。
最初は偶然だった。
しかし、今では彼の演奏を楽しみにしている自分がいる。
彼の演奏を聴けば、自分も頑張ろうと思える。
彼の演奏を聴かなければ、綾音はピアノを弾くことを諦めてしまいそうになる。それほどまでに彼の演奏は素晴らしいものなのだ。
綾音にとって翔一の存在はなくてはならないものとなった。
そんな、ある日のこと。
綾音は、あれだけの演奏ができる翔一がどうしてストリートピアノで演奏しているのかと思った。綾音が感じる限りプロと遜色のない演奏が出来るのに、彼はそれをしない。
疑問が大きくなると綾音はスマホで工藤翔一のことを調べると、彼がとあるコンクールで入賞した経歴があることを知った。
なのに彼は、それ以降に演奏をしている記録が見当たらない。
彼のことを調べていくと、綾音は驚くべきことを目にする。
それは、翔一が5年も前に事故で亡くなっているという事実だった。
「じゃあ。私が会っている翔一さんは……」
今になって冷静に考えてみると、翔一の演奏している時には綾音以外の人間が居なかった。
いつもそうだ。
彼は1人で演奏している。
綾音以外に観客はいない。
彼は誰に聴かせるわけでも無く、綾音の為に演奏してくれているのだ。
「私以外に、見えても聞こえてもいないんだ」
綾音は、翔一の幽霊に魅入られてしまったのだと理解した。
でも、不思議と怖いとは思わなかった。
むしろ、彼と出逢えたことが幸運のようにも感じられた。
綾音は翔一を追いかけるのを止めなかった。
彼が生者でないと理解しても、例え彼に触れられなくても、翔一の傍に居るだけで幸せを感じていた。
◆
綾音は翔一のピアノを聴きに駅のホームへと向かっていた。
今日は翔一のピアノを聴くことが出来ると思うと、綾音は自然と足取りが軽くなる。
そして、今日も翔一はピアノの前に居た。
「こんにちは。綾音さん」
綾音の姿を確認すると、翔一は嬉しそうに微笑みかけてきた。
その笑顔を見ると、綾音の心は温かくなり、同時に胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
綾音は翔一の演奏を聴く。
一曲弾き終えると、一翔は綾音に話しかける。
「綾音さん。連弾をしませんか?」
と提案される。
【連弾】
1台のピアノを2人で演奏すること。
ピアノは元来、1人が両手を用いて演奏することを想定して作られている。しかし、ピアノは、演奏部(鍵盤)の幅が通常120cm以上あり、そこには標準で88の鍵が備えられるため、十分に2人で同時に演奏にあたることが可能だ。
連弾を2人で行う場合、高音部を弾く人(ピアノに向かって右側に座る人)と高音部を弾く人(左側に座る人)の2パートに分かれる。
翔一の提案を聞いた綾音は戸惑った。
何故なら、綾音は誰かと一緒に演奏をした経験がないからだ。翔一の誘いを受けてみたい気持ちはある。
だけど、上手く弾けるか自信が無い。
そんなことを考えていると、翔一は優しく語り掛けてくれた。
「大丈夫ですよ。僕がリードしますから。それに、もし失敗してしまっても誰も責めたりはしませんよ。一緒にピアノを楽しみましょう」
その言葉は綾音の心に響いていく。
彼の声はまるで魔法のように綾音を安心させてくれる。
むしろ、下手な演奏をしてしまった方が翔一をガッカリさせるのではないかと思ってしまう。
それなら、いっそ思い切って弾いてみるのも良いかもしれない。
綾音は意を決して返事をする。
「分かりました。やってみます」
綾音が了承すると、翔一は笑みを浮かべてピアノ椅子に腰掛ける。
椅子は1脚しかないので、翔一は立った状態で演奏する。
「曲は何にします?」
綾音は緊張しながら訊くと、翔一は考えることなく答えた。
「綾音さんが、僕の前で弾いた『エリーゼのために』にしましょう」
その曲は、綾音の好きなクラシックの曲だった。
ピアノ初心者向けの曲ではあるが、綾音は初めて覚えた曲であるだけに思い入れが強い。
綾音が曲を指定してから、すぐに演奏が始まった。
翔一は、右手でメロディーラインを弾いていく。綾音は左手で伴奏の役割を果たしている。
最初はぎこちない動きだった。
しかし、徐々に慣れてくると、翔一の指は滑らかに動くようになり、曲のテンポも速くなっていく。
不思議な一体感があった。
綾音は、翔一と一緒ならば何でも出来るような気がした。
やがて、曲が終わる。
「軽く練習しただけで、こんな風にできるとは思いませんでした。翔一さんが、私に合わせて下さったお陰です」
綾音は素直に感想を口にする。
すると、翔一は首を横に振って答える。
「いいえ。綾音さんの実力ですよ。音楽が好きで奏でることに喜びを感じる。だから、ここまで弾けたんですよ。きっと、綾音さんには才能があるんだと思います。
だから、もっと自信を持って下さい。僕は綾音さんの演奏が大好きです。これからも、ずっと聴かせて貰いますね」
翔一の言葉は、とても嬉しいものだった。
「私に才能だなんて。でも、ありがとうございます。私も翔一さんの演奏が好きなので、これからも聴かせてください」
綾音は、自分の想いを伝えることが出来た。
それから、綾音は翔一と会っては連弾を行う。
彼との演奏は、いつも優しく包み込んでくれるように暖かく、それでいて力強くもある。
彼との演奏を奏で聴いていると、綾音は自分が演奏しているような錯覚を覚える。
それ程の一体感を味わうことが出来る。
駅の片隅で綾音と翔一は、連弾を続けた。
ピアノを弾くのではなく音楽に対して綾音の身体が指が動いてる。優しい調べが流れていく。
その感覚は綾音の身体を高揚させた。
音楽と一体化し、まるで空を飛んでいるかのような気分になる。
ならば鍵盤を叩く手は自由に飛ぶための翼だ。
翔一のピアノを聴きながら、綾音は心の中でそう思った。
翔一は綾音に音楽を楽しんで欲しいと言った。
そして、綾音も翔一と同じ気持ちを抱くようになった。
なぜ自分は人前でピアノが弾けないのか。
それは、人前に出ると緊張してしまうからだ。
ピアノが嫌いになったわけではない。むしろ好きだ。
だけど、人前に出ればどうしても萎縮してしまいがちになってしまう。
それが嫌なのだ。
ピアノが弾きたい。
綾音は翔一と一緒にピアノを弾くことで、それを実感していた。
誰かに評価して貰うことではなく、自分で楽しむためにピアノを弾く。
そう考えると、綾音の心は軽くなった。
ずっとピアノを弾いていたいが、曲は終盤を迎える。
綾音はもったいないと思いながらも、ラストに向けて加速していく。
そして、最後の和音を弾き終えた。
曲が終わると、綾音は我に帰る。
いつの間にか時間が過ぎていたようだ。
夢のような時間は終わりを告げる。
綾音は、ふっと息を吐いた。
途端に拍手の音が聞こえた。
綾音は驚いて辺りを見渡すと、駅に居る人達がこちらを見て手を叩いているではないか。
何人居るだろうか?
少なくとも10人は超えていると思う。
突然の出来事に、綾音は困惑する。
傍らには翔一は居ない。
観客の一人として翔一がおり、拍手を送ってくれている。
綾音は慌てて立ち上がって、観客達に頭を下げた。
観客たちは素晴らしい音楽の余韻に浸りながら、その場から去って行く。
唯一、翔一だけがその場に残っていた。
綾音は翔一に話しかける。
「いつから私は一人で弾いていたんですか?」
綾音と初めて会った時と同じように微笑みかけてくれた。
彼は綾音を落ち着かせる為に、ゆっくりと語り始める。その口調は優しくて心地よい。
「最初からですよ。楽しそうな表情を浮かべていたので、邪魔をしないようにと思っていました」
綾音は翔一の話を聞いて、頬を赤く染める。
恥ずかしかったのだ。
まさか、演奏を人に見られていたことが、これほどまでに気恥しいものだとは思わなかった。
だからこそ、今まで人前でピアノを弾くことが怖くて出来なかったのだろう。
だけど、今は違う。
演奏を見られたことよりも、ピアノを弾けなかった事の方が辛い。
「もう僕を追いかける必要はありませんよ。綾音さんは、もう一人でピアノを弾ける筈です」
翔一の言葉は、綾音にとって救いだった。
彼には感謝してもしきれない。
翔一は綾音に、これからどうしたいのかを訊いてきた。
綾音は少し考えて答えを出す。
――ピアノを楽しんで弾きます。
それが綾音の出した答えだった。
翔一は綾音の答えを聞くと、嬉しそうに笑った。
彼の笑顔を見ると、綾音の心も温かくなっていく。
綾音が翔一に手を伸ばすが、その手を逃れるように彼は身を引く。彼女は胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
それが何を意味するのか、綾音には分かった。
「ありがとうございます」
綾音が、お礼を口にすると翔一は目を伏せた。
眠るような優しい表情をした彼は、日が陰るように姿を消した。
◆
駅のストリートピアノで銀盤を弾く少女の姿があった。
周りには彼女の演奏を聴くために集まった聴衆がいる。
少女の名は綾音。
彼女は、今日もピアノを楽しむ為にピアノを弾いている。
やがて、曲が終わる。
綾音は、ふうと息をつく。
すると周囲から拍手の音がした。
綾音は人々に礼を行う。
すると、小学生高学年くらいの女の子が進み出て話しかけてくる。
「お姉さん、素敵な演奏ですね。どうしたら、そんな風に弾けるようになるんですか?」
無邪気に質問してくる女の子に、綾音は優しく答える。
自分がピアノを始めたきっかけや、どうして楽しいと思えるようになったのかなど。
女の子は、とても熱心に話を聴いてくれた。
綾音に自然と笑みがこぼれる。
「また、お姉さんのピアノを聴かせて下さい」
女の子は、そう告げると駆け出して行った。
その姿を見ながら綾音は、翔一と会った時の自分もこんな感じだったのかなと、思いを馳せる。
きっと、そうだ。
綾音は確信する。
翔一と出会った事で、ピアノを弾く楽しさを思い出すことが出来た。
あの人を追いかけることしかできなかった自分が、今ではこうしてピアノを弾くことが出来ている。
綾音はピアノを弾き続けたいと思った。
そして、もっと多くの人達に自分のピアノを届けたい。
綾音は、そう思うようになっていた。
~Fin~
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