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 とりあえず三人で僕の家に帰宅した。保川さんの家よりも僕の家の方が近かったのだ。 「あらあら、どうしたの?」  ピアノレッスンは終わったのか、祖母ちゃんがびしょ濡れの僕達を見て驚き、慌ててタオルを持ってきてくれた。この状態ではピアノの置かれた部屋に入る訳にいかず、僕は二人をリビングに案内した。ダイニングテーブルには父さんが読んでいた新聞紙が置きっぱなしだった。  保川さんは自分の事などお構いなしで、お母さんの髪や肩をタオルで拭いている。 「藍ちゃんも風邪をひいちゃうわ」  祖母ちゃんが追加のタオルを持ってきたことで、ようやく自分がまだ濡れている事に気付いたみたいだった。  ひと通りタオルで拭き、祖母ちゃんが温かい緑茶を持ってきた頃には、窓の外では雨が止んでいた。通り雨だったようだ。  祖母ちゃんが出ていった後のリビングには、静寂な空気が漂った。保川さんとお母さんはソファーに並んで座り、一言二言会話を交わしていたようだが、やがて静かな寝息が聞こえてきた。 「寝ちゃったの?」  湿ったタオルを頭にかけたまま僕がこっそり訊ねると、保川さんは「きっと疲れちゃったんだと思う」とお母さんの様子をうかがいながらうなずいた。 「ごめんね、鍵本君」  まだ濡れているからか、保川さんの黒髪がいつもよりも光って見える。 「迷惑をかけてしまって……」 「そんな事ない」  僕の方こそごめん。そう言おうとした時、ソファーの背にもたれたまま目を閉じているお母さんを見つめた保川さんが、ふっと笑った。 「時々、考えてしまうの」  ぽたり、と保川さんの毛先から首元のタオルに水滴が落ちた。 「目が覚めたら、お母さんが元通りになっているといいなって」  レース越しの太陽は、簡単には保川さんの表情を映さない。 「どうしてなの……」  保川さんが首元のタオルを両手で握りしめた。 「どうしてお母さんは病気になってしまったの……、どうしてお父さんは傍にいないの、どうして」  私ばっかり。  音にならないほどの小さな叫びが部屋じゅうに充満し、僕は思わずソファーに座る保川さんを抱きしめた。  腕の中で保川さんが小さく震えている。一度でも吐き出した言葉は意味を持ち、跳ね返すように毒を放つ。  ――どうして自分ばかりがこんな目に遭うのだろう  思考を逸らせば逸らすほど、直面する現実に打ちのめされる。大切な存在だからこそ見過ごせない。後ろめたい罪悪感を抱えて生きるには、僕達はあまりにも未熟だ。 「お母さんの……」  保川さんが話す事で、僕の濡れたTシャツに熱が籠る。 「薬を見つけたの」 「薬?」 「飲み忘れないようにカレンダーも使って、毎朝お母さんに渡していたんだよ。なのに……」  普段使わない引き出しに飲まれていない薬がごっそり入れられていたのだという。お母さんは保川さんに見つからないように処分しようとしていたのかもしれない。記憶が抜けていく病状だとはいえ、お母さんにはお母さんの意地やプライドがあったのだろう。  すぐ横でお母さんの静かな寝息が響いた。その寝顔には、保川さんと同じ雰囲気がちらついた。親子だとはいえ別の人間なのに、不思議に思った。  誰にも介入されない場所で、保川さんの拠り所は〈ピアニッシモ〉だけだったのだろう。言葉にならない叫びを抱えながら、保川さんは静かに、力強く、暮らしていた。まさにその感情こそが、ピアニッシモに響いていたはずなのに。 「ごめん……」  頭にかけてあったタオルが重みを持ってソファーに落ちた。 「嘘をついていて、ごめん……」  ミクロサイズの水滴が空気中の湿度を上げ、後悔とやるせなさを僕に焚き付けた。 「違うの」  僕のTシャツに、保川さんの額がそっと押し付けられる。 「私が勝手に理想を押し付けていたの。そうじゃないって分かって、ショックを受けた自分が恥ずかしかった」  Tシャツ越しに、保川さんの熱がじんわりと広がっていく。 「私は、鍵本君のピアノが好きだったんだよ……」  濡れた髪からのフローラルな匂いが鼻をかすめた。僕の持たないもの。自分とは何もかもが違う目の前の存在を、僕は強く欲した。母親に縋られる子供と、母親に見捨てられた子供。共有できるものなんて何もなくていい。  ただ僕は、音楽室で僕のピアノに耳を傾けてくれる保川さんに救われていたのだ。
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