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 ピアノがさらさらと鳴っている。  人気(ひとけ)のない校舎端の三階で、鮮やかな音色が泡立っては消えていく。廊下の向こうには音楽室があるので、ピアノの音が聞こえるのは不思議ではない。  昼休み、日直の仕事で近くまで来ていた私は思わず足を止めた。  ピアノの音は、開けっ放しの窓から入り込んだ春風に混ざり、心を優しく撫でていった。その感触を、私はよく知っている。  誰が弾いているのかな。少なくとも音楽の村中先生の奏でる音とは雰囲気が違う。わずかに駆り立てられる好奇心は、早く教室に戻らなければならないという焦燥感にかき消された。  日直の仕事を終えて教室に戻ると、あらゆる食べ物を混ぜた匂いが鼻腔に触った。クラスメイトのほとんどが昼食を終え、各々の時間を過ごしていた。私と同じグループの清香(きよか)(めぐみ)ちゃんも、机にファッション誌を広げている。 「ただいま」  二人に声をかけながら、清香の席の傍に置いてあったはずの私の椅子がない事に気が付いた。昼休みの時間には、私と恵ちゃんはいつも自分の椅子を清香の席に持っていく。日直の仕事に行く前には敢えてそのままにしていたはずなのに。 「あ、ごめーん」  頬杖をついた恵ちゃんが雑誌のページをめくりながら、悪びれもなく言う。 「(あい)の椅子が邪魔だなって思って、男子に片付けてもらっちゃった」  私は身の置き所を失ったまま、二人が眺めているファッション誌に視線を落とした。そこにはカラフルな半袖Tシャツや、柔らかそうなシフォン地のカットソー、そして夏に相応しいサンダルが彩りを見せている。二人の共通点に、私は含まれていない。  すぐ傍の窓から風が吹き込んだ。爽やかな春の香りによって先ほどの出来事を思い出した私が「あのさ」と思わず言いかけると、ようやく清香と恵ちゃんがゆっくりと顔をあげた。 「なに?」 「さっき、音楽室からピアノの音が聞こえてきたんだけど、誰が弾いているんだろ?」 「ああ、きっと鍵本(かぎもと)が弾いているんだよ」  興味なさそうな清香の回答を聞いた私は、とっさに廊下側の一番前の席に視線を動かす。誰もいない席は、騒がしい教室の中で秩序を保って佇んでいるようだった。  授業中にはその席に座っている鍵本奏汰(そうた)は、一か月前の四月に転校してきたクラスメイトだ。中学三年生の春という時期の転校はこの田舎町にとっては珍しい出来事であり、好奇心が寄せられたが、当の本人は周囲に一線を引いているようだった。 「三丁目に古くからのピアノ教室があるじゃん? 鍵本ってそこの孫らしいよ」  鍵本君自身の意思とは関係なく、田舎町での情報は早い。  教室前方のドアががらりと開き、噂の張本人がドアのすぐ近くにある席についた。鍵本君は転校前の制服を着ているため、他の男子とはブレザーの色が違う。その上にある黒髪が鍵本君の頭の小ささを強調している。  転校生として紹介された鍵本君を見た時、都会の人みたいだと思った。私の第一印象はあながち間違っていなかったようで、実際に鍵本君は家庭の事情で都会から引越してきたらしい。  予鈴のチャイムが鳴るのと同時に教室内に漂っていた雑音のトーンが低くなり、暗黙の了解で固まったグループが解体してそれぞれの席へと散らばっていく。私も窓際の前から三番目にある自分の席についた。先生が入ってきた前方のドアを見ながら、鍵本君の様子を視界に入れる。  廊下に響いたピアノの音を、私はよく知っている気がした。
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