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 放課後になると、清香と恵ちゃんは駅前にオープンしたばかりのカフェに行こうとはしゃぎながら教室を出ていった。  私は教室で日直の日誌を書き終え、それを持って廊下を歩く。窓の向こうの運動場からは運動部の掛け声が聞こえた。文化部の部室棟からは吹奏楽部の金管楽器の音。校則通りに廊下の右側を歩く私の横を、プリーツスカートの裾を揺らした女子が笑い声をあげながら走っていく。いずれも私には縁のない光景だった。  職員室で担任に日誌を提出し、昇降口で靴を履き替えた途端、教室で(まと)うものとは別の憂鬱さがセーラー服の襟元をちくちくと刺し始めた。中学三年生である保川(やすかわ)藍という顔が剥がれ落ちていく。  五月の放課後の空気は、夏の到来を知らせてくる。影を帯びた青空の下、自宅に近づくたびにスニーカーを履いた足取りが重くなった。木造二階建ての一軒家。 「ただいま!」  わざと明るい声を出しながら靴を脱いでリビングへと向かう。静寂の奥にある空間は、薄暗くて季節感の欠片もない。緊張した手でリビングのドアを開けると、今朝とは違う光景がそこにあった。 「お母さん」  私はダイニングの椅子に鞄を置きながら、カーテンを開けた。夕方の光がレース越しに揺れる。  リビングの端にあるチェストの引き出しは全て開かれていた。その前にぼんやりと座り込んでいるお母さんの表情はどこか虚ろで、誰から見ても異様な光景は、私にとっての日常だった。  私の声に反応したお母さんは、ゆっくりと顔をあげた。ピントが合うまでの数秒の沈黙が痛い。 「藍……」  ようやく私の名前を呼んだお母さんの傍に、プリーツスカートの折り目に気を付けながら座る。 「お母さん、どうしたの?」 「見つからないのよ……」  困惑を見せるお母さんに、質問を重ねる。 「何を探していたの?」 「…………」  再び沈黙が落ちる。答えないのではなく、答えられないのだ。空き巣みたいに部屋を荒らしながら探し物をするお母さんを見るのは初めてではない。薄紫色の薄手のニット越しに細い腕に触れながら「お母さん、ソファーに座ろうか」と促してみる。お母さんのカーペットを歩く音がゆっくり響く。  私は鞄からスマートフォンを取り出して、お母さんの横に座った。 「見て、お母さん。新しい動画がアップされているよ」  動画アプリを開いた状態でスマホの画面をお母さんと共有する。最初は興味なさそうにしていたお母さんは、やがて表情を綻ばせていった。 「綺麗な音ねぇ……」  内臓スピーカーからはなめらかなピアノの音色がゆっくり溢れてくる。どんよりとした室内が、少しだけ晴れた気がした。  お母さんはピアノの動画が好きだった。病状が悪化した頃に縋る気持ちでピアノ演奏動画をいくつか見せたところ、「綺麗ねぇ」と喜んでくれた。なかでも今観ている〈ピアニッシモ〉という配信者の演奏をとても気に入っていたので、私はチャンネル登録をして、お母さんと一緒に視聴を繰り返していた。  ピアノの高音が砂のようにサラサラと落ちていく。かと思えば、低音が地面を揺らしていく。この〈ピアニッシモ〉という人物は、既存のクラシック曲だけではなく、自分で作曲したものや流行りのポップスなどを演奏し、視聴者数を伸ばしていた。今日配信されたのは私の知らない曲だった。サムネには『自作曲』と銘打っている。  動画には指先しか映らず、その手は華奢な女性のものにも見えたし、少年のものにも見えた。どんな人が弾いているのだろう。  散らかったリビング、お母さんと並んでソファーのクッションに身を預けながら、夕飯の支度が頭をかすめる。だけどこの動画が終わるまでは私の自由時間だ。
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