2.

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 祖母ちゃんの淹れてくれた緑茶が冷めてしまったので淹れ直した。ついでに、二階の祖母ちゃんの部屋から薄手のタオルケットを持ってきて、ソファーで眠る保川さんのお母さんに掛けると、 「ありがとう」  カップを両手で握って暖をとる保川さんが小さく微笑んだ。  どこに座ろうかと迷った僕は、結局保川さんの隣に座るしかなかった。このリビングには三人掛けのソファーがひとつしかない。僕もカップを手に取って淹れたての緑茶を飲み込む。雨によって冷えた身体に苦味の効いた温度が伝っていく。 「あのさ」  声がかすれ、僕は一度咳払いをしてから言葉を続ける。 「来月の修学旅行、行くよな?」  先ほどの通り雨が嘘だったように、窓の外では太陽がさんさんと光を注いでいる。濡れたアスファルトに反射した光が眩しい。 「行けるわけないじゃん……」 「どうして。積立金は払っているんだろう?」  身も蓋もない僕の質問にも、保川さんは頑なだった。 「そういう問題じゃない」  室内はこんなにも明るいのに、光は保川さんの表情を映さない。 「保川さん」  まとわりつき始めた感情を無理やり剥がすように僕は言う。 「そんなに無理しなくていいんじゃないか」 「無理だなんて思っていない!」  保川さんは湿ったタオルを握りしめたまま、顔をあげた。まっすぐに僕を見つめる瞳には先ほどの弱々しさは皆無だった。 「みんな、私とお母さんをそう言う。同情して、『大変だね』って言って、だから何? 私達は五年間もこうやって過ごしてきた。私の気持ちは誰にも推し量れない」  五年間。その時間の長さに僕はたじろいだ。それは今の保川さんを形成するには十分なほどの長い時間だったはずだ。隣に座っているはずの保川さんがこんなにも遠い。その寂しさは、身に覚えのあるものだった。  僕は学校での光景を思い浮かべる。教室で二人の友人と関わろうとする保川さん、試験に向き合う保川さん、そして音楽室で僕のピアノに耳を傾けてくれた保川さん。どんな彼女も真実だった。今こうして母親の事で必死になろうと足掻く保川さんの姿も。  その向こうで眠るお母さんの頭が、かくりと揺れた。 「保川さんの人生は、保川さんのものだ」  僕を見上げる瞳が、水分を伴って波打った。あ、やばい、と思った時には遅かった。澄んだ瞳から透明な雫がぽとりと落ちる。  ――どうして私ばっかり。小さな叫びがこだまする。 「お母さんを、見捨てろって言うの……?」 「そうじゃない」  僕は思わず細い背中に手を伸ばしそうになり、慌てて引っ込めた。さっきの今で、同じ行動には移せない。 「誰かに頼ったらいいんじゃないかという事だよ」 「誰かって、誰に」 「周りの大人の人達だ」 「お母さんは、私のお母さんなんだよ」  涙に濡れていく保川さんの声には、強い想いがみなぎっていた。コンクール落選を理由に母さんや律斗や学校から逃げた僕とは違う。たとえ会話が噛み合わなくなったとしても、想いが無下に扱われたとしても、決して見捨てたりしない信念がそこにあった。 「分かってるよ……」  僕は、保川さんのようにはなれない。 「でも、保川さんがお母さんを大事であるように、僕は保川さんが大事だ」  始まりは、小さな小さな旋律だった。僕達を濡らしていた雨水のように、いつかはやがて蒸発して消えてしまうものかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。音楽室での時間は確かに僕を駆り立ててくれたのだと。  沈黙が密度を上げて重力を増した頃、硬い音を立ててドアが開いた。いつの間に出かけていたのか、生徒からもらったという派手なエコバッグを持った祖母ちゃんがリビングに入ってくる。 「藍ちゃん、お昼ご飯もまだでしょう。食べていきなさい」 「え、でも……」 「保川さん」  僕が視線を送ると、保川さんは一度口をつぐんだ後、祖母ちゃんに視線を向けた。 「……お世話になります」  その後、目を覚ました保川さんのお母さんも交えてダイニングテーブルで昼食を摂った。夏に食べきれなかったそうめんを洋風に味付けした昼食は、朝からの騒動に疲れた身体に程よく沁みた。 「藍ちゃん」  小皿にサラダを取り分けながら、祖母ちゃんが言った。 「今更だけど、奏汰は学校でちゃんとやれているのかしら?」 「何を言い出すんだよ、祖母ちゃん」 「えっと……」  保川さんは馬鹿正直にも口ごもり、僕は苦笑するしかない。 「ほら祖母ちゃん、保川さんが困っているじゃん」 「じゃあ、なおさら仲良くしてもらうようにお願いしなくちゃ。来月、修学旅行があるんでしょ?」  僕と保川さんにとってデリケートなワードを持ち出した祖母ちゃんに、反応したのは僕達ではなかった。 「修学旅行?」  これまで黙々とそうめんをすすっていた保川さんのお母さんが、隣に座る保川さんに視線を向けたのだ。 「何の話?」 「お母さん、何でもな……」 「僕達、来月に修学旅行で京都に行くんですよ」  何でもない、と応えようとした保川さんを遮って僕が言うと、お母さんの目にははっきりとした光が宿ったように見えた。 「京都?」 「そうです」 「いいわねぇ。私も初めてお父さんと行った旅行先が京都だったのよ」  うっとりとした表情を浮かべたお母さんは、懐かしさに浸るというよりもまるで昨日の出来事を思い出しているように見えた。そこに保川さんの姿は映っているのだろうか。 「修学旅行、行ってきなさい」  ふいに、お母さんは保川さんに顔を向けた。 「京都に行くんでしょう?」  それは、僕が初めて見るお母さんの表情だった。 「でも……」 「藍ちゃん」  箸を置いた祖母ちゃんが、戸惑う保川さんに微笑む。 「藍ちゃんがずっと頑張ってきた事は知っているわ。でも、これからはあなたの頑張りに私達も混ぜてちょうだい」  保川さんの表情が静かに変わっていく。不覚にも、今のこの瞬間をメロディーにしたいと思った。頭の中で鍵盤を叩いて音階を落とす。ここに楽譜があったら、きっと書き殴っていたほどに。 「藍ちゃんが他人に頼ったって、これまでの頑張りは消えないし、あなたのお母さんへの愛情が消えるわけじゃないのよ」  祖母ちゃんの言葉をそうめんと一緒に飲み込みながら、僕は幼かった頃の僕を思う。上手くいかない事ばかりに捕らわれていた僕は、母さんの声を、表情を、読み取ろうとしていただろうか。今となっては何も思い出せない。  だからこそ、僕は保川さんを守りたいと思う。誰にも代われないその立場を、その気持ちを。  ありがとうございます、とうつむいた保川さんの声が小さく響いた。葛藤の向こうにある感情が旋律を刻む。僕の最も好きな、美しい変ロ長調を残して。
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