1.車椅子の君

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そうは言うものの、なかなか洋菓子店に行く時間が見つけられず、月日はしっかりと経ってしまっていた。 亮平は車椅子のこともあり、基本出勤は長谷川の運転する車で通う。ただ、亮平の気紛れで、天気のいい日や運動不足解消をしたい日などは車椅子で通勤することに決めている。自宅から会社はわりと近く、ちょうどいい運動量なのだ。 その日は久しぶりに車椅子で出勤した。 以前段差で困った場所ももうすっかり工事が終わり、歩道が綺麗に舗装されている。 黄色い看板の洋菓子店は開店準備中らしく、店員がひとり入口まわりを箒で掃いて掃除していた。 見る限り、彼女の姿は見当たらない。 「すみません」 「はい」 声をかけたものの、そういえば彼女の名前を知らないことに気づく。自分の浅はかさが憎い。 「ちょっと名前がわからないのですが、こちらに髪を編み込んだ女性が働いていませんか?」 あまりにもヒントがみすぼらしい。 その他に特徴といったら向日葵のような笑顔しか思い浮かばないが、それを表現するにはどうにも上手い語彙が出てこない。 けれど女性は、「ああ~」と見当がついたようで、大きく頷く。 「たぶん矢田さんのことだと思いますけど、今日は遅番なのでまだ出勤していません。何か言づけましょうか?」 「あ、いえ」 言づけるもなにも、別に何かを話したかったわけじゃない。 洋菓子を買おうにもまだ開店前のため、亮平は出直そうかと考えた。 「今日はいいです。また来ます」 「あの、失礼ですがお名前だけでも伺ってよろしいでしょうか?」 「ああ、それなら――」 亮平は胸ポケットから名刺を取り出す。 名前を伝えたところで誰のことだかわからないだろうから、「彼女は私の名前を知らないでしょうから、車椅子の人だということを伝えてください」とお願いしておいた。 それを伝えたところでじゃあ何の用なのかと自分自身問いかけるも、よくわからない。 気紛れに寄ってみただけで、彼女が働いていたのなら久しぶりにケーキでも買ってみようかと思っていただけだ。 彼女に会えず少し残念な気持ちになっているのは何故なのだろう。 亮平は振り返る。 彼女の向日葵のような明るい笑顔が脳裏によみがえった。
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