イシアの涙

1/1
前へ
/18ページ
次へ

イシアの涙

滞在する小山に帰ってくると、森は少し暗くなりかけて空気がヒンヤリとしてきた。 ソムはドアの前に立ってイシアの手を離した。 「また行こう」 そう言って前歯を見せて笑う。 笑うとその頬には、えくぼができているのがわかった。 イシアはそのえくぼを不思議そうに眺めた。 そしてそれに触ろうとして指を伸ばす。 えくぼの穴に指をはめようとしたけれど、うまく距離感が掴めなくて実際には彼の鼻の穴に指が挿さった。 「何やってんだよ!」 笑いながらソムは彼女の手首を掴んだ。 「えくぼを捕まえようと思ったの」 「え?」 「だけどよく見えなくて」 そう言うイシアの開いた瞳からは涙が溢れた。 「見えないの…」 ソムは思わずイシアを抱きしめていた。 「見えない」 「言うな」 「見えないのよ」 「言うなって」 ソムはイシアを抱きしめたまましばらく動かなかった。 イシアは声も立てずに泣いてる。 距離感が掴めない。 彼女の世界は遠近感のない視界に阻まれて、その自由を奪っていた。 ソムは師匠を好きになるなとイシアに言いながら、自分がイシアに夢中になっている事を悔いた。 好きになる気持ちを自らも押し留める事ができないのに、それを彼女に強いている。 好きになるなと言えば言うほど、彼女がソウリュウを求める気がした。 イシアがここに来てすぐにソムにはわかった。 彼女がソウリュウを愛するようになるだろう、という事に。 ソウリュウにはそういう不思議な力があった。 引力のようなもので女を惹きつける。 イシアのソウリュウを見つめる瞳が、キラキラ光って美しい。 それは瞳孔が開いて関心のあるものをよく見つめようとするからであり、そういう瞳孔の動きに職業柄、彼は敏感なのだった。 彼女の瞳孔が開いてソウリュウを見つめる。 だからそれは、彼に確信を与えていた。 そしてそれはソウリュウの方にも見られる現象で、ソウリュウの瞳孔も開いて光を反射してキラキラ輝いていた。 双方の瞳孔が開いて、互いを求め合っている。 それは、瞳を読む彼にとっては何よりも確信を与えるものだった。 二人は求め合っている。 そして、それは誰も(とど)める事ができない。 ソウリュウの力を失わせる事はできない。 それは国益に関わる。 けれど、それ以外にも彼にとっては都合の悪い事だった。 別の誰かを好きになっている年上の女性に恋するなんて。 そんな報われない事はない。 「イシアさん義眼が入れば本当に世界は変わるよ」 答えないイシアにソムは続けて言った。 「泣かないで。あなたの涙を見ると、海に沈められたみたいに悲しくなる」 「どうして?」 「どうしてって、わからないの?」 「わからない」 「だって義眼技工士は誰かの涙を止める為に尽くしているんだよ」 「ソム…私を見て」 そう言ってイシアは自らの眼帯を捲り上げた。 窪んだ眼窟に萎んだ瞼が被る。 その隙間から眼窟内が見えた。 「私はこんな姿をしているの」 「だから、君は何もわかっていないんだよ。義眼を入れた姿をまだ知らないから」 「誰も愛してなんかくれないのよ」 「俺は今だって、その姿のまま君の事が好きだよ」 「あなたには見慣れたものなのね」 イシアの涙は止まらなかった。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加