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「いやあ、悪いね。一緒に入れてもらっちゃってさ。感謝しかないわ」
内心ではちっとも悪いなんて思っていなかったけど、姿勢だけは低く低く、申し訳なさそうな声を紡ぎながら、あたしは彼に両手を合わせて礼を言った。感謝しかない……なんて言ったものの、実のところ感謝は指先ほどの大きさしかなく、あたしはもっと大きな質量と熱量を持つものを一緒に抱えている。今にも爆発して飛び散ってしまいそうなそれを、今日はどうにか処理してやろうとしている。
「いや、感謝しかないとは言ったけど、感謝以外もあるよ? もちろんですけどね?」
「それはいいけど、なんで小日向さんは傘を持ってこなかったの? 朝から空模様は怪しかったのに」
「失敬だなあ。朝ごはん食べる前までは覚えてたってば」
ふうん……と相槌を打った声色から察するに、あたしの言葉は明らかに信用されていない。まあ傘を「忘れてしまった」という理由が真っ赤な嘘であることは当たっているし、やっぱり勘は鋭い人だなあ……と思う。
隣で、あたしより少し背の高い彼が、自らの胸くらいの高さで傘を持つ手を捧げている。少し前、生徒玄関で靴のつま先をトントンとやりながら校舎を出ていこうとする彼を呼び止めて「あの、傘を、そのね。忘れましてね……へっへへ」なんて言って、まんまと彼の反対側に収まったのはよいものの、いざとなるとドギマギしてしまって、最初はいつものように口が回らなかった。
このままじゃ沈黙じゃねえか、しょうがねえな……とばかりに、今はあたしたちの周りを雨音が満たしている。傘にあたって弾ける雨粒の音は、学校を出た頃はサラサラと慎ましかったのに、今はボコボコと自己主張を強めていた。
本来であれば、あたしも自分で差した傘が雨を受け止める音を聞いていたのだろう。でも、今日は全て知っていながら、傘には家の玄関にある傘立ての中で休暇を命じている。うらやましいな、傘のやつ。天気がどうだろうが平日は学校に通わなければいけないあたしと違って、あいつは空から水が降ってこない限り、毎日ずっと休みだ。しかも今日は雨が降っているのに休みなのだから、こんなに気持ちのいいことはないだろうな。感謝してほしいよ。
でもあたしも傘を持ってこなかったからこそ、いま彼と相合傘ができているわけだから、傘に感謝すべきなのかな。
違うよ。同じ傘に入れてもらってる上に、傘を持ってくれてる彼に感謝しなくてどうするんだ。
「にしても、ちゃんと傘を持ってこれる大塚くんはすごいね」
「僕がすごいんじゃなくて、昨今の気象予報技術がすごいんだろ。朝のテレビで晴れだって言われたら、僕だっていつもは折りたたみ傘くらいしか持ってきてないよ」
「へー。あたしはそもそも折りたたみ傘すら持ち歩かないや」
「雨降ったらどうしてるの」
「そりゃあ、われわれ人間には、親からもらった脚があるでしょうに」
「ずぶ濡れで走るってこと、それ」
「なに。びしょ濡れになったあたしのこと思い浮かべて、いかがわしい妄想とかしてないよね。えっろ」
「そんなに濡れて帰りたいのなら、今からでも僕は傘を持ったまま全力疾走するけど」
じとっとした目でこちらを見ながら、彼は傘を前向きに傾けはじめた。
その手をあたしは上からかぶせて、元通りにさせる。
「嘘だよ」
普段は下手をするとあたしよりも白い肌をしていて、感情の起伏に乏しいその表情が、わずかに歪む。あたしの掌の中に、少しひんやりした彼の手。ちょっとだけ肌寒いくらいの気温なのに、彼の頬がじわりと赤く染まりはじめる。
赤いけど、これは曇り。
あたしにとっては予報の的中。彼にとっては想定外。
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