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いつも雲ひとつない、澄み切った「彼」という空を、自分の手で掻き乱したい。そう思い始めてからずっと機会をうかがって、五限の終わりごろに予報通り窓の外で泣き出した空を見て、今日がその時だと確信した。しくじるなよ、というメッセージは重苦しい灰色がかった雨雲だ。
もちろん、しくじりませんよ。だいたい、彼を今日ちゃんと捕まえられなければ、もれなく帰り道は本当に雨に濡れて全力疾走するはめになるし。怠惰で甘ったるいあたしは、敢えて退路を断つことで覚悟を決めるタイプなんでね。
そうやって生徒玄関のホールで、ちらちらと辺りをうかがいながら、彼のことを待っていた。友達と話しているときは、いつもどこかのんびりした空気をまとっている彼は、一人ぼっちになると思いの外機敏で、スタスタと下駄箱に歩み寄ると「上靴を脱いで入れる」ことと「外靴を出して扉を閉める」ことをほぼ同時にやってのけた。そっと近づいていこうと思ったあたしはすっかり慌ててしまって、あんな不審者みたいな声の掛けかたしかできなかったのだ。
それでも彼はあたしを拒絶することなく、受け入れてくれている。
目標まで、あと少し。
「なあ、小日向さん。そろそろ手を離してくれないかな」
彼は少しかがんだまま、あたしの手が重ねられた傘の持ち手を見ていた。さっきよりも頬の赤みが濃くなっているのは、きっと気のせいなんかじゃない。必死に感情という名の土砂降りを食い止めているかのようだった。彼の手の温度が上がってきているのは、それがあたしの手に包まれているからか、あるいは彼自身の体温上昇によるものか。もっとも、あたしにとっては現在の状況が一番重要で、推測なんてどうでもいいんだけど。
傘からはみ出た、彼の制服の背中が少し濡れている。それでもあたしを濡らさないような位置で傘を持ってくれているところに、あらためてはっきりと思う。
このまま、みすみす彼の手を離してたまるか。
「なんで?」
すっとぼけすぎて、我ながら白々しい声色だった。でも、それを彼に感づかれてはいけない。笑顔を顔にはりつけて、彼の反応をうかがう。
「なんでって……」
「あ、もしかして女子に手を握られるのが恥ずかしいの? 大塚くんって、まだまだウブいとこあるんだね」
「あのなあ」
生真面目な彼のことだ。あたしの放った台詞は図星だったに違いない。
わずかに憤慨の方へ振れそうになった彼を引き戻すかのごとく、傘ごと彼のことを自分の方へ引き寄せた。
汗のにおいか、やたらとマリンノートの香りを漂わせる同級生の男子たちと違って、彼はこんなに近づいても、まったく何のにおいもしない。無臭。たぶん舐めても味しないんだろうな。
彼にとっての学校生活は、特に飾ることも気取ることも必要のない、ただの通過儀礼としての価値しかなかったのだろう。
そう。
たった今、これまでは。
ふと、傘をたたく雨音が弱まり始めていることに気づく。
案外早かった。これはあたしの想定外。彼にとってはどうだか知らないけれど、このまま傘をたたませるわけにはいかない。
傘があたしたちを隠してくれている間に、まだやりたいことが残っているから。
「ねえ、大塚くん」
「なんだ」
「今って、彼女いる?」
「いるなら、今頃は彼女とひとつの傘で帰ってると思うけど」
「あー、確かにそうだよねえ。……だったら今からそういう関係で、ひとつの傘で帰ろ」
何を、と言いかけた彼の頬に、すかさず口づけた。
あたしたちの姿は傘が、声は雨音が、それぞれうまく隠してくれた。
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