出会いその一 青年

1/2

9人が本棚に入れています
本棚に追加
/20ページ

出会いその一 青年

 敬陽(けいよう)は鯉を見ていた。  夏の強い日差しと影がつくる明暗の暗の方にしゃがみ込み、堀を流れる水を覗く。濁りのない流水は底の石やら砂を惜しみなく晒し、その上をゆったり泳ぐ鯉はまるで浮かんでいるようだった。  敬陽の隣に放られた黒いランドセルは光と影の境界に横たわり、下半身を日に炙られている。  少年が居座る短い橋は大きな屋敷の門に通じている。そこが私有地であることなど考えもせずに門の外までなら好きに踏み入っていいのだと認識している彼を咎める人は誰もいない。そもそも辺りを歩いている人がいなかった。  それでも門が勢いよく開き、中から人が飛び出てきたときには、敬陽は反射的に謝ろうとした。  口を開く前に門から出てきた人物が敬陽を見て、驚いたように体にブレーキをかけた。彼の肩をつかみ、「帰りなさい。ここにいちゃいけない!」と無理やり立たせる。ランドセルを拾い上げ、敬陽の腕を引いて足早に歩き始めた。  敬陽は半ば引きずられながら、頭の中は突如現れた青年のことでいっぱいになっていた。  肩をつかまれたときに見た青年の楕円形の目と黒い瞳、折れそうなほど細い鼻筋、歪みのない唇、分けられた前髪と白い額。首に埋められたビー玉のような喉仏より下には鎖骨が左右に浮き出ていて、さらに下ると着物の(あわせ)がはだけているのに気づく。着物の奥には暗がりが広がっている。  少年は歩きながら夢を見ていた。  覚めたころにはタクシーの中で体を左右に揺らしていた。  隣には青年がいて、膝に敬陽のランドセルを載せていた。  「大丈夫?」  熱が出て看病をされているときのように、無防備に頷く。実際、体が火照っていて頭が沸騰したような気分だった。  青年はランドセルを脇に置いて顔を覗き込んでくる。  「ごめんね、突然引っ張ってタクシーに乗せてしまって。あそこにいちゃ危ないから……」  青年の着物の袷は正されていた。葉桜に似た色の着物は彼の白い体もその影もすっかり隠してしまっている。  敬陽が何も言わないので青年は困ったように眉を下げた。「熱中症かな」と懐からハンカチを取り出し、額の汗を拭いてくる。敬陽はされるままだ。  「ごめんね。降りたらすぐに飲み物を買ってあげるから。家はどこ辺りかな?」  敬陽は駅前で降ろしてほしいと話した。途中で家を通過するのだが、できるだけ長くタクシーに乗っていたかった。  車内は涼しく、座席の座り心地が良い。青年もそう感じているのか、柔らかく目を閉じて前を向いている。姿勢が良いのに堅さはなく、むしろ柳を思わせるゆったりとした雰囲気を持っていた。  敬陽の顔や体から熱が引いていく。それでも心臓は青年に手を伸ばすように鼓動していた。  少年は幼い頃から「美」に弱かった。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加