出会いその一 青年

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 タクシーから降り、駅前の広場のベンチで青年と並んで座る。買ってもらったスポーツドリンクはすぐに半分空いた。  日陰を選んで座ったが、それでも暑い。青年は着物を着ていて暑くないのだろうか、と横目で盗み見れば、額や首が汗でじっとり濡れていた。缶入りのコーラをちびちび飲むたびに喉の真珠が上下する。  彼を見ることが女子の着替えを覗くのと同じくらいの禁忌に感じられた。  青年は敬陽の名前や年齢などを一切聞かなかった。暑くないか、時間は大丈夫か、引っ張ったときに怪我はしていないかなどといった心配ばかりだった。  敬陽は青年が自分について尋ねてくるのを待っていた。彼が自分について知れば、自分も彼について知る権利を得る。彼を知りたかった。  二人の足元で鳩がうろついている。脚を思い切り振り上げると慌てて逃げるが、すぐに戻ってくる。それを何度か繰り返しているうちに、反対側で中年の男がパンくずをまき始め、全ての鳩がひとところに集合する。足元の鳩も遅れまいと羽ばたいていった。  敬陽は痺れを切らしてこちらから尋ねることにした。  「お兄さんは誰かから逃げているんですか」  青年はハッとしたようにこちらを見て、弱く笑った。  「うん。あの屋敷から逃げてきちゃった」  それから、敬陽を巻き込んでしまったことを詫びる。門の外に人がいるなど思ってもみなかったので、何も考えずに手を引いて連れて来てしまったという。  機嫌を窺うようにゆっくり瞬きをする仕草は優しげで、下向きのまつ毛の長さが際立った。  何歳かわからない、しかし敬陽の倍は生きているであろう青年がとても弱く儚く見えた。彼は少年が押せばいとも簡単に尻餅をついてしまいそうなほど、頼りなく、脆い――。  「どうして逃げてるの? 誰から?」  うーん、と青年がうなる。  「難しいな、説明するのは」  それきり、青年はその話をすることはなかった。名前についても聞ける雰囲気ではなかった。  鳩が一斉に飛び立つ。  パンをちぎっていた男が横を向く。鳩の群れに踏み入った本人は頓着することなく男の前を悠然と通り過ぎる。夏真っ盛りの中、ジャケットを着た男は青年と同じくらい暑そうな恰好にもかかわらず、汗ひとつかいていなかった。  青年が腰を浮かせる。その目は一点、ジャケットの男を凝視していた。  咄嗟に彼の手を引く。広場を出て、駅前のショッピングモールに入っていく。ちらりと後ろを見ると、ジャケット男がついて来るのが見えた。  エスカレーターの方へ向かおうとして、思い留まった。エスカレーターで上の階に行こうが下の階に行こうが外には繋がってない。足早につけてくる男に追いつかれるのがオチだ。  少年は考えた。トイレに籠るか、いや待ち伏せされる。大人に助けを求めるか、では何と説明する? 別の出入口から出るには追いつかれるし、屋上に逃げれば最後だ。  青年の手が離れる。敬陽は反射的に彼の袖を捕まえた。  その手が優しく外される。  「ありがとう、もう大丈夫だから。帰りなさい」  頭を撫でられた瞬間、心臓が激しく彼を求めた。ほっそりとした長い指をつかむ。  「ちょっと――」  青年の困惑した声を引っ張り、目的地を目指してずんずん進む。小柄な小学生の手など簡単に振り払えるはずなのに、その乱暴な真似が青年にはできないようだ。小さな抵抗だけを手に感じながら、敬陽はエスカレーターを昇る。  ジャケットの男はなぜすぐに追いつかないのか。それはおそらく敬陽のせいだろう。人目がたくさんある中で小学生を巻き込んで手荒な真似はできないからだ。  一定の距離を空けながら、双方共に二階に上がる。敬陽は青年を連れてある店に足を踏み入れた。  青年の緊張が手を経由して敬陽へと流れてくる。ちらりと顔を見ると、赤面しているかなと思っていた顔は青ざめていた。なるべく床だけを見るように努めているのがわかり、敬陽は吹き出しそうになった。  頭のないマネキンの横を通り過ぎる。ピンク色のレースで飾られたを上下に身に着けたマネキンのくびれと(へそ)の凹みが美しい。  後ろを確認すると、男は結界が張られて神域に入れない魔物のように、店の前で右往左往していた。女性の店員に不審そうな目を向けられたところで諦めたようにその場を離れた。  次いで店員の目線がこちらに絡む。敬陽は青年の腕にじゃれついた。  「お兄ちゃん、お姉ちゃんの誕生日プレゼント早く選ぼうよ!」  赤ワインで染めたような色の商品を指さす。薔薇をかたどった刺繍のそれを、青年は直視しようとしない。  「お姉ちゃんならこれが似合うんじゃない?」  店員が近付いてきて「何かお探しですか?」と聞いてくる。  「お姉ちゃんの誕生日プレゼントを探しているんです」  ねっ? と青年の袂を引っ張ると、彼は開き直ったようだ。人好きのする笑顔を作り、「そうなんです」と言った。  「この前干していた姉の下着が飛んで行ってしまって、もうすぐ誕生日だから新しいのを買ってあげようって……あの、これ買います」  豪華な赤のブラジャーを手に取り、店員に渡す。彼女は今にも首を傾げたいというふうだったが、追及してはこなかった。  「カップの大きさはこれでよろしいでしょうか。お姉様にお聞きしなくて大丈夫ですか?」  サイズは教えてもらっていますから、と青年が財布を取り出す。  わかる人が見ればすぐにピンとくるような派手な袋に買ったブラジャーを入れてもらう。店に陳列された女性下着を隠れ蓑に店の外を窺う。男はいないようだった。しかしそう離れていないところで待ち伏せされている可能性は高い。  一番近い階段へ向かおうとして、青年に止められる。  「近いところこそが一番危険だから」  二人は敢えて二階のフロアを大きく回り、エレベーター横の階段から下へ降りた。  ショッピングモールを出て、駅の改札前へ着くと、青年は敬陽にかがみ込んだ。美しい彼は影さえも美しい。少年はその影に包まれていたいと思う。  「迷惑をかけて本当にごめん。タクシーに乗って家に帰るんだよ。いいね?」  五千円札が渡される。駅のロータリーに止まっているタクシーへと背中を押されるままに歩く。  青年は何度も謝り、そして二度とあの屋敷へは近づかないようにと釘を刺した。  敬陽は頷き、最後に一つだけお願いがある、買った下着が欲しいと言った。  「学校の図工の時間に使うんだ」と無理やりな理由を作ったが、急いでいる青年は下着の入った袋を少年に渡してくれた。  タクシーに乗ってドアが閉まったのを確認して、青年は踵を返し、駅の改札へと小走りで去っていった。  後部座席で袋を抱きしめる。中には派手な装飾の芸術品が入っている。少年は「美」にとことん弱い。  そして手元の宝よりずっと綺麗な彼の姿を家に着くまでずっと夢想していた。  タクシーの後ろを車が一台ぴったりと付いてきていることには全く気付くことはなかった。
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