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「お昼、食べていかない?」
筒野に誘われるまま、敬陽は端山の屋敷で冷やし中華をいただいた。
居間の卓を囲んで、敬陽の隣に筒野が座り、向かいに端山と田山が並んだ。麦茶を運んできた田山は筒野に誘われると遠慮しながらもきっぱりと断ることはせずに座布団の上で胡坐をかいた。
田山は端山に雇われた運転手兼使用人だそうだ。使用人といっても端山の業務を手伝うことが主で、たまに簡単な家事もするという話だった。彼は今日もジャケットを着ている。
宴会が開けるほど広々とした居間は縁側に繋がっており、そこから入ってくる風に風鈴がくすぐられて笑う声がよく響いた。透明なガラスに紫の花が描かれている。桔梗という花だと端山が教えてくれた。
田山が昨日の女性下着売り場の話を振ってきた。なかなか策士だね、と悪戯っぽく笑う。敬陽は赤くなりながらもブラジャーを一つ買ったことを話す。正しくは津彌が買ったものなのだが。
「敬陽君が下着を持って帰ったこと、親御さんは知っているのかな」
敬陽は首を振る。ワインレッドのブラジャーは机の裏に袋ごと隠してある。昨夜寝る前に取り出して、レースの織りなす花園を鑑賞したことは誰も知らない。
「敬陽君が持っていても仕方ないよね」
端山の言葉に閃く。
「筒野さん、もらってくれますか?」
田山が麺を喉に詰まらせた。端山がぎょっと目を開く。
当の筒野は小首を少し傾げて微笑んだ。神酒のように清らかな笑顔はどこか艶やかでもあり、深紅の薔薇を彷彿とさせた。
「そうね。サイズが合えば欲しいわ」
「サイズ……」
「今度持ってきたときでいいよ」
「そうだ、食べ終わったら鯉に餌をやりにいこう」
端山が話題を変え、田山がそれに乗った。
冷やし中華はおいしかった。
堀の鯉はどれも鮮やかだった。クコの実を点々と散らした杏仁豆腐のような白い鯉もいれば、夕日を纏った緋鯉もいる。多いのは赤と白の比率が同じくらいの錦鯉だ。昨日敬陽が見つめていた鯉も赤白のコントラストが鮮明な錦鯉だった。どれであったか、今目の前を泳いでいるのか、もうわからない。
「黒い鯉はいないんですね」
「真鯉のことかな。それは泳いでないね」
町を流れる河川では泥の色をした真鯉が一般的で、パンをばら撒く人に助けを求めるように群がっているのが敬陽にとっての標準的な鯉だった。地獄から這い上がろうとする亡者たちの中にちらほら紛れていることが多い天女たちが、この堀では主役だった。
「昨日、ここで鯉を見てたんだね」
端山の問いに頷き、ごめんなさいと謝る。この堀も、その上に架かる橋も、端山の所有する土地だ。勝手に入ってはいけなかったのだ。
屋敷の主は優しい笑みを浮かべ、敬陽の頭に手を置いた。
「いいんだよ。君との縁ができて私は嬉しい。よかったらまたおいで」
端山の撫でつけられた髪が一房零れる。太陽に照らされ金色に輝いた茶髪は稲の豊穣を思わせる。
鯉の餌がなくなった後、敬陽はそのまま端山たちと別れた。
筒野に次回下着を持ってくることを約束し、田山の車に乗る。
後部座席の車窓越しに、端山が顔を近づけてくる。
「じゃあ、頼んだよ。無理はしないように」
敬陽は頷いた。上気する気分のままに小指を差し出すと、彼は意外にもほっそりした小指で応じた。指切りを交わし、車窓が上がる。車が発進した。
角を曲がるまで、神の子孫たちは車を見送っていた。
「駅まででいいんだよね」
田山がサングラスをかけながら言う。
敬陽は指切りをした小指をこぶしに隠し、握りしめる。彼らと交わした約束を反芻する。早ければ、今日果たせるかもしれないし、あるいは永遠に果たす機会が訪れないかもしれない。
とにかく、できる限りのことはしよう、と敬陽は誓った。
駅前のロータリーで降ろしてもらう。駅を横目に通り過ぎ、広場へ向かった。
新聞を広げた中年の男や、缶コーヒーを片手にぼんやりするスーツ姿の男、子供を遊ばせている女数人など、日常の風景がそこにあった。彼らの足元では鳩が首を動かしながらさまよっている。
空いているベンチに腰掛け、敬陽はしばらく何もせずに座っていた。日差しが直接当たり、すぐに体が火照ってくる。人々は日陰にいるのに、少年だけが光を浴びていた。彼は光の世界で青年を待った。日に燦々と照らされる彼はきっと誰よりも見つけやすい。
目を閉じていると時間の経過が曖昧に感じる。
熱中症かと心配そうに見てくる老女に気づいたが、反応はしなかった。ただ、大きく息を吐く。
来るわけがない。
青年はもう、敬陽と会う気はないのだから。
それなら、自分から見つけに行くしかないのだ。
駅方面へ戻る。逃げようともしない鳩の横を通り過ぎ、ロータリーの前を横切り、駅の改札前に立った。
敬陽は自分の運の良さを自覚した。
改札内から柔らかな姿勢の人物が出てきた。Tシャツにジーンズというシンプルな姿も着物姿に劣らず美しい。無駄を一切そぎ落とした清廉さが彼から放たれていた。
こんなに簡単に再会できるなんて。神の末裔の加護を感じざるを得ない。
青年が敬陽に気付く。改札を抜けようとしていた体が一瞬止まるが、少年のまっすぐな視線に諦めたように歩き出す。
津彌と敬陽は向かい合う。
「邪なもの」は絹のように滑らかな白い顔で敬陽を見下ろしていた。
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