邪なもの

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 端山の言う「邪なもの」はコーラが好きらしい。  駅前の広場の日陰で並んで座る。敬陽は昨日と同じくスポーツドリンクを買ってもらい、一気に半分空けた。  青年は涼しげな姿をしていても汗が脇や背中から滲んで白いシャツに灰色の染みをつくっていた。長い脚をきちんと揃えて朽ちかけたベンチに座る彼は、桜の葉の色をした着物が見えるくらい昨日と変わらなかった。  「どうして会いに来たの」  青年は笑わなかった。硬い表情のまま飲み物を買い与え、用件のみ聞いてくる。  「……会いたかったから」  嘘ではなかった。敬陽は津彌に会いたかった。  端山に津彌を連れて来てくれと頼まれたとき、「私たちのことは津彌に言ってはいけない」と深く釘を刺された。  敬陽は津彌の信頼を得て、逃げる手伝いをするふりをして端山たちへ受け渡す役目を言いつけられた。強制ではなく、危険なことがあればすぐに手を引くようにとも注意された。  敬陽は揺れていた。端山たちの言葉を信じていいのか。神の子孫などあり得ないことと思うが、彼らも完全には信じずに伝説上の話だと言っている。伝説自体は本当にあるのだろう。  そして、何より彼らのたたずまいは本当に神様なのではないかと少年は半ば本気で思っていた。あのような人間が存在しているわけがない。風と水を司る神々と思う方がしっくりきた。  横で缶を首に当てている青年もまた、人間離れしていた。敬陽は昨日から  「美」に(もてあそ)ばれ続けている状態だった。  「もう関わっちゃ駄目って言わなかった?」  「言ってませんでした」  津彌は再び押し黙ってしまう。端山や、津彌と歳の近い筒野が堂々としているばかりに、彼の吹き荒らされる花弁に似た儚さと猛暑の中の砂糖のような脆さが引き立つ。  「もう、俺に構っちゃいけない。危ないことに巻き込まれるから」  「危ないことって何ですか」  「知ることも危ない」  それはあなたが「邪なもの」だからですか、そう聞きたかったが堪える。  ふと、敬陽は疑問に思った。津彌は「邪なもの」そのものなのだろうか。それとも「邪なもの」の子孫なのだろうか。  筒野は津彌の存在について、土地神の伝説の「悪魔や鬼バージョン」と言っていた。伝説と彼らとの関係が対象を変えて津彌に反映されるのであれば、津彌は「邪なもの」の子孫ということになる。だが端山が津彌を「邪なもの」と呼ぶから、彼自身がそうなのかと考えていた。確かめようにも、横にいる本人に聞くわけにはいかない。  津彌は缶の縁を指先で持って立ち上がった。  「行くね。もう俺には関わったら駄目だから。あの屋敷にも絶対に近づかないで」  広場入り口のゴミ箱まで歩いていく背中を敬陽は追いかけた。  「どうして屋敷に近づいたらいけないんですか?」  津彌は止まることも振り向くこともなく言葉だけを後ろにぽんと投げる。  「あの屋敷の人間――ジャケットを着たあの男の人は君を一度見てるから。きっと顔も覚えられてる。俺のことを知ってると思って近づいてきたらいけない」  「近づいてきたらどうなるんですか?」  「……話を聞かれるくらいならいいけど、巻き込まれるかもしれない」  コーラの缶がゴミ箱に吸い込まれる。飲み口に銅色の液体がほんの少し溜まっているのがちらりと見えた。  隣のゴミ箱にペットボトルを入れながら、敬陽は青年の腕をつかんだ。筋肉を感じさせない柔らかさが指に吸い付く。汗でじっとりと湿っていて、陸から上がったばかりの人魚と邂逅(かいこう)した心地にさせられる。  津彌の腕がぴくりと反応したが、振り払ってしまえるほど彼は子供に対して酷ではないようだ。昨日から一気に大人になった気でいた敬陽は、自身がまだ小学生であることを思い出し、その弱さを利用することにした。腕をつかんだまま、上目遣いに年長者を見上げる。  「何に巻き込まれるんですか? 津彌さんは大丈夫なんですか?」  こちらを見下ろす青年の顔に前髪がかかり、彼の表情は見えづらい。しかし、冷たくし過ぎてしまったことを後ろめたく思うような憐憫が滲み出ていることはすぐにわかった。優しい手つきで敬陽の手を握る。木から降りられなくなった猫の爪を幹からそっと離すように、敬陽の手が腕から離される。彼の手は冷たかった。そして、体の中で唯一乾いていた。  「君にはとても感謝してる。君のおかげで逃げられたから。でも……いや、だからこそ、危険な目には合ってほしくないんだ。だからもう、会わないでほしい」  津彌の楕円形に近い目がまっすぐ敬陽を見下ろす。いつもならば見惚れていただろう敬陽は、耐えきれず目を逸らした。  違う。  津彌は敬陽がいなくても逃げきれていた。いや、敬陽がいなければ広場で休むこともタクシー乗り場まで付き添うことも必要なかったのだ。まっすぐ改札を通って電車に飛び乗ればいいのだ。それをしなかったのは、きっと津彌が義理堅く、優しいからだ。連れて来てしまった少年への謝罪とお詫びをし、熱中症を心配してくれた時間は、敬陽のために割いてくれた時間であり、同時に彼が見つかる原因となった時間だった。  それに気付いてしまえば、敬陽は申し訳なくなってうつむいてしまう。今こうしている時間も本来は必要ないものなのに。  「ごめんなさい」と目を合わせられないまま言う。  下を向いているのに津彌の顔が見えた。しゃがみ込んだ彼は、少年の肩に手を置いた。  「謝るのはこっちの方だよ。それと、ありがとうね」  青年は広場を出ていく。白いシャツの背中に描かれた汗の地図が、これから彼の行く世界のように思えて、金輪際会うことはないだろうと初めて実感することができた。  もう一度、津彌の顔を見たい。今までで一番強く願ったが、敬陽は自分を律することができた。美しいものとの別れは心が深く痛み、その痛みすらも美しかった。  顔を見たいという願いはすぐに叶った。  広場を出たところで、ぐるんと彼の首が回る。見開かれた目は太陽を反射し、眼光が敬陽を刺した。  「ねえ」  雪女が吹雪を吐くのを思わせる冷たい声で、津彌は言葉を発した。その冷たさは少年に向けたものではなく、彼自身の心が凍えて震えたような不安を持っていた。  「俺の名前、どうして知ってるの」  敬陽は水を浴びたように血の気が引いた。  二人は互いに名乗り合っていない。それなのに「津彌さんは大丈夫なんですか?」などと聞いてしまった。  青年がこちらに戻ってくる。もう冷たさは纏っていなかった。が、それ以外の感情も地面へ剥がれ落ち、彼のスニーカーに踏まれる。  邪なもの。  端山の言った言葉がよみがえる。敬陽は後ずさりもできずに、青年と相対した。
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