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 その日はすべてがはっきりとして見えた。  空はまさに「空色」というしかない一色でまんべんなく染められ、山のように遠くで盛り上がる雲は汚れを知らない純白だった。  緑に苔むした石段は影に覆われ、木々が風に揺れるたびに漏れる光とのコントラストが鮮やかだ。  青年はシャツを汗でぐっしょり濡らし、石段を駆け上がっていく。眉に留まっていた汗がまぶたを通過し顎を伝う。開いた襟へ風が吹き込み、湿った体を冷やした。  荒い呼吸が石段の両側の鬱蒼とした木々に吸い取られ、辺りは静まり返っている。  青年は石段の一番上を目指す。  止まってはいけない。まだ追いつかれてはいない。  逃げ切れる。  最初は二段飛ばしで上がってきた段を今は一段ずつ蹴りながらよろよろと走る。限界を迎えそうになったとき、ついに最後の段へ到達した。太陽に清められたまっさらな景色が広がる。  襤褸切れのように消耗した青年を目の前の(やしろ)が鷹揚に迎える。石段の下に建つ鳥居から風が吹き上げ、彼の背中を押した。汗が引いていく。  神社は青年が本殿に到達するのをただ待っている。油蝉の声が優しげに聞こえた。  本殿の前の(きざはし)に差し掛かったとき、背後からシャツをつかまれた。上げていた脚がそのまま硬直する。  脚をゆっくり下げ、振り返る。そこには見知った少年がいた。  今日はランドセルを背負っていないんだ。まず思ったのはそんなどうでもいいことだった。  少年は青年を見上げている。その顔は呆けたように見える一方で、確かな自我も感じさせた。  青年は少年の思惑を測りかね、そのあどけない顔をただ呆然と眺め、立ち尽くした。
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