1.和真

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「じゃあさ、この後うち来なよ。三限なくなったんだろ」  顔が耳元までぐっと近づき、小さな声で囁かれる。思わず体をそらした。体の奥がざわりとさざめく。 「ハハ……真っ赤」  耳たぶを指で触れられ、更に頬が熱くなる。啓吾は口元をあげて笑っているが、その目はいつもと違っていた。こういう時にだけ見せる、欲望を覗かせる獰猛な目だ。その目には未だに慣れないでいる。  こくりと頷くと、頭をぐしゃりと撫でられた。 「ご飯食べてないんだろ。弁当食べたら後から行くから先に帰ってて」 「いや、待つよ」 「俺が落ち着かないから」 「でも、一緒に帰りたい」  断ろうとしたが、にっこりと笑う顔があまりにも無邪気で断ることができなかった。  笑顔は昔のままだ。先ほどの顔とのギャップが更に和真の体を熱くする。それと同時に、心臓が握りつぶされるようだった。 「じゃあ、食べ終わるまでどっか行ってて」 「なんで」 「お弁当見られるの恥ずかしい」  困ったように笑うと、また頭をぐしゃりと撫でられた。 「え、なんで? むしろ体気をつけてるの偉いよな。でも、もう少し太ってもいいんじゃね? お前、体気遣っている割に体力なさすぎ」  苦笑いをして弁当を掻き込む。別に体を気遣っているわけではない。ただ、仕方なく食べているだけだ。そんな話は決して啓吾には言えないが。 「行こう」  手を握って立たされた。大きくて少ししっとりとしていて温かく優しい手。啓吾の手は啓吾の性格そのものだ。  早くと急く気持ちと、動きたくないという気持ちがせめぎ合う。いっそうのこと、殺してくれと何度も思いながら、その手を一度だけぎゅっと握ると振り払った。  大学からは啓吾の家まで一時間。一人暮らしをするほどの距離ではない。むしろ、自宅通学としては近い方かもしれない。  地元が一緒なため全く同じ通学路だが、一緒に帰るだなんて大学に入ってから初めてだった。何度か誘われたが和真が断ったからだった。   昼時の電車は空いていたが、和真は座席に座ることはしなかった。他人と体が接触するのが嫌なので、空いていてもドアのそばに立つのが常だ。それを知っている啓吾も、同じようにドアのそばに立って見下ろしてくる。  自分の頭一つ分くらいは大きい啓吾がそばに立つと緊張する。壁際に追い込まれているようだ。啓吾は意識などしていないだろうが、体を近づけてこられると恋人のようだと思って焦ってしまう。  香水をつけているのだろうか。昔の幼かった匂いとは違う。鼻孔をつく匂いは啓吾の匂いと混じり、目眩がするほどに魅力的だった。同時に、彼女の好みだと思うと泣きたくなってくる。  啓吾はいつものように話しかけてくるが、和真はうまく答えることができなくて、「うん」とか、「そうだね」とかしか言えない。  昔は何を話していたっけ、なんて思いながら片方の手首をぎゅっと握り、視線をその手にずっと向けていた。  タイプが違うといっても、一緒にいると楽しかった。話だって普通にできた。一緒にいると居心地がよくて、楽しくて、ずっとそばにいたいと思っていた。それがいつからかこんな風になってしまった。  いや、いつからか、なんて分かっている。あの時からだ。こうなったのも全て、自分のせいなのだ。自分が啓吾にそばにいてほしいと我が儘を言ったせいでこうなったのだから、もうそんなことを願うのは許されない。  だから啓吾に昔のような関係を求めるなど間違っているとは十分に理解していた。
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