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昼間は湿気が少なくカラッとした暑さだったのが、日が沈み夜になると一転して湿度が高く蒸し暑い。
仕事を終え、午後七時半過ぎにアパートから帰宅したまどかは、部屋のエアコンを付ける。長い間閉め切った部屋は、サウナのようでその場にいるだけで、汗が噴き出す。
リモコンを操作すると直ぐに、送風口が開き冷たい空気を吐き出す。
まどかは通気性のある生地の服に着替え、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルに口を付ける。ミネラルウォーターの冷たさと、エアコンの空気で火照った身体が冷え汗が引いていく。
冷蔵庫にミネラルウォーターを戻し、リビングに足を向けると突然インターフォンが鳴った。
誰だろう―。
今日は来客はない予定である。一瞬セールスか勧誘かとも考えたが、にしては時刻が遅すぎる。
応対しようか居留守を使おうか、逡巡していると再びインターフォンが鳴った。
「はーい」まどかは声を上げ、玄関に向かう。
一瞬、戸の向こうにいるのが不審者の可能性も頭を掠めたが、返事をしてしまった手前、引くに引けず恐る恐る鍵を開錠しゆっくり戸を開ける。
戸の向こう側にいる人物を見て、まどかは「えっ……」と呆けた声を上げ眼を瞠る。
「日高君、どうして……」
そこに立っていた人物。それは他でもない、蓮であった。
どうして退会した蓮が、自分の前にいるのか。状況が掴めないまま、呆然と立ち尽くす。
まどかの姿を見、蓮の表情が緩んだ。
「よかった……。会えなかったら、どうしようかと……」
小さな声で呟くと、すぐさま表情を引き締める。
友人に“今から会ってくる”と、言って意気揚々と大学を出たのは良いが、今日が平日でまどかはまだ仕事中だと思い立ち、この時間まで本屋を覗いたり、図書館で試験勉強に手を出してみたりしながら、時間を潰していたのである。
「如月さん。すみませんでした」
蓮は声を大にし、深く頭を下げる。
幾ら深夜ではないとはいえ、男性が女性の前で謝罪をし深く頭を下げている姿を他の住人が見れば、あらぬ疑いを掛けられる可能性があった。
そのようなことは、まどかは勿論のこと蓮も望んでいない。
「とにかく中に入って。
話はそれから」
まどかは蓮を部屋の中に招き入れる。
「麦茶でいい?」
蓮がリビングの床に腰を下ろしたことを認めると、まどかは問う。
「はい」蓮のか細い声。
まどかは冷蔵庫を開け、麦茶が入った冷水筒を取り出し二つのグラスに注ぐ。
「どうぞ」まどかは蓮に、麦茶の入ったグラスを渡し、蓮と拳二つ分ほどの空間を開け、床に腰を下ろす。
暫しの間、沈黙が流れる。
「何かあったんだよね?
日高君がなにも告げずに、退会する人には見えない」
なかなか口を開かない蓮に、まどかが水を向ける。蓮は頷くとグラスを両手で包み、ぽつりぽつりと件の飲み会でに交わした友人との会話、自分の考え、更にはアプリを退会した経緯を話していく。
「その友人の言ってることも正しいんです。
来年は就活も始まって、卒論だってあるし。いつまでも、如月さんに料理を作りに来れるとは限らないのも分かっていて。
如月さんとの関係をどうするか、自分の気持ちが揺れる状態で、料理を作れば影響が出ます。料理って、思っている以上に、繊細で素直なんですよ。
自分で食べるだけならば構いません。でも、誰かに…如月さんに食べて貰うのならば、そんな中途半端な気持ちで料理を作るべきではないと思ったんです。
だから、自分の気持ちがはっきりするまで、一度如月さんとの関係を見直そうと……」
蓮は麦茶の水面に視線を落としながら、淡々と自分の胸中を吐露する。蓮はその風貌に似合わず、まどかが思っている以上に、真面目で責任感の強い人物らしい。
顔を上げ、まどかに視線を真っ直ぐ向けると、再度口を開く。
「退会してすぐ、後悔したんです。あんなこと、するんじゃなかったって。自分勝手な理由で、何も言わず退会したこと謝ります。すみませんでした」
蓮は再度深く頭を下げる。
「理由は分かった。だから、頭を上げて欲しい」
それまで、蓮の言葉に耳を傾けていたまどかが、沈黙を破る。
蓮は頭を上げる。怯えたような蓮の様子を見、今度はまどかが口を開く。
「私だっていつまでも、日高君に来てもらえるとは思っていない。
あなたにはあなたの、人生が、将来がある。それを邪魔する権限は私にはない。
幾ら、日高君の料理を気に入ってるとしてもね」
まどかはふっと笑う。
まどかの口から出た、料理を気に入ってるという言葉に、蓮は眼を瞬かせる。
俺の料理を気に入ってる―?
「そうじゃなきゃ、何度も依頼しない」
心の中で呟いたはずだが、どうやら口から洩れていたらしい。蓮は面映ゆくなり顔を伏せる。
恐らく、穴があったら入りたいという言葉は、このような時に使うのだろう。
気持ちが幾らか落ち着き、蓮はゆっくりと顔を上げる。
蓮にとって、料理を作ることは生きる術であり、個人的に出来て当然のもの。だからか、誰かに料理を褒められ、認めてもらえるとは、思ってもいないことであった。
「そんなこと……。俺はただ当たり前のことをしただけで……」
「日高君」蓮の言葉を遮り、まどかが声を掛ける。
「あなたの料理を気に入っているのは本当。嘘じゃない。
作って貰っているとか、金銭のやり取りがあるとか、そんなこと関係ない。
日高君、気づいてないだろうけど、あなたの作る料理は安心感がある。これまで作ってくれた料理は全て、誰もが一度は食べたことがある家庭料理を基本としたものだった。
だからかな、安心感があるのは。母親が作った、料理を食べた時のような安心感。
日高君の料理に向き合う姿勢も、作る料理そのものも、私は気に入ってる」
思わず、語気が強くなる。
深呼吸を一つすると、蓮が口を開く。
「俺も如月さんのこと気に入ってます。
どんなメニューにしても、好き嫌いなく残さず完食してくれて。
件の友人に、俺たちの関係は世間でいう、“推し”だって言われたんです。確かにそうかも知れません。
俺は如月さんを依頼人として推していて、如月さんは俺を推してくれて」
蓮の言葉に、まどかも確かにと頷く。
推しは生きる源だ、とよく聞く。推しがいるから、仕事や勉学を頑張れるのだと。
自分たちの関係も、これと近いものではないのか、とまどかは思う。
まどかは、蓮が料理を作りに来る金曜日を心待ちにしている。その週はある意味、金曜日の為に仕事をこなしていると言っても、過言ではないのではないかと思う程に。
だからこそ、蓮が退会したことを知った際に、ショックを受け淡い期待を抱いた。
蓮が静かに話し始める。
「俺、思うんです。
人には誰しも、自分を推してくれてる人がいるって。芸能人とか立場は関係なく、俺が如月さんを推しているように、如月さんを推している人はきっと俺以外にもいるはずで。
それは、他人のこともあるし友人や家族とか、身近な人の場合もある。この世の中、自分を推してくれる人がいない人って、いないんじゃないかって。そう思います」
蓮は一旦言葉を切ると、照れくさそうに笑う。
「すみません。上手く言えなくて……。
それに、まだ大学生の俺が言っても説得力とかないんで、偉そうなこと言うなって思うでしょうけど」
まどかは頭を振った。
何も“推し”は、芸能人や有名人に限った話ではない。
誰しも、自分のことを気に入り応援してくれる人が存在する。それは、まどかと蓮のように他人同士や、友人や恋人、家族といった身近な人でも同じこと。
自分を推してくれる人がいるからこそ生きて行ける。前を向ける。
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