金曜日の推し活

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 まどかが蓮と同じ大学生だった頃、果たして自分は目上の相手にこのように慇懃な文面でメールを送っていただろうか。思い出すと、なんとも言えない罪悪感と羞恥心に苛まれる。  和食でというのがまどかの要望である。故にご飯を炊くことは問題ない。問題はその次の文面である。 網とはお餅などを焼くときに使う網のことだろうか―。 なにをする気だろう―。  生憎、まどかのアパートには網は用意されていない。お餅を焼くときには、トースターを使えば事足りるため、わざわざ網を買う必要がないのである。  蓮との関係が始まって約一年。  この一年の付き合いで知ったのが、蓮が比較的に秘密主義だということである。  都内の大学に通っており、一人暮らしをしていること。料理を趣味としていること。  まどかが持っている蓮に関する情報はこの程度である。  恐らく、まどかが尋ねれば嫌な顔をせず、話すだろうと思っている。だが、友人でもなければましてや恋人でもない、ただ “推し”というたけで個人的な事柄を根掘り葉掘り聞きだすのは違うと思う。  まどかとしては自分のことを分別なく話す人より、蓮のように必要な事柄のみを話す人の方が誠実に映り好感が持てる。  秘密主義ということもあるのか、事前にメニューに関しての詳細をまどかに説明することは少ない。  いつも、前日に用意しておいて欲しいものや準備してほしい事柄を、予めメッセージで寄越すぐらいのものである。 『了解しました。 お米は炊いておきます。  申し訳ありませんが網は持っていません』  スマホを操作し、こう文章を打ち込む。五分も経たないうちに、『了解しました』と返信が届いた。  蓮が来る当日。  まどかは定時に仕事を終わらせ、同僚や先輩・上司から飲み会の誘いも断り、「お先に失礼します」と声を掛け、真っ直ぐアパートを目指す。  天気予報通り、雨は止むことを知らず肌寒さも変わらない。駅までの道すがら、通りがかりの車に水を掛けられ、まどかの服を濡らすが正直気にしている暇はない。  蓮に合い鍵を渡していない。故に、万が一まどかが約束の時間に帰宅できない場合、蓮を部屋の外に待たせておくことになる。  そのようなことはさせたくない。今日のような、悪天候の時は特に。  電車を降りると、自然と早足になる。逸る気持ちが、足を前に進ませる。  部屋の鍵を開け、中に入ると戸に凭れ掛かる。一人暮らしには充分な1DKの部屋。微かに息が上がり呼吸を整える。  時刻は午後六時を過ぎている。  午後六時半過ぎ。蓮はまどかの部屋の前で、インターフォンを押す。チャイム音がし暫く間が開いて、鍵の開く音もなく戸が開く。    蓮は黒い長ズボンに白いTシャツという、至ってシンプルな服装で、クリーム色の大きな手提げ鞄を肩に掛け、財布とスマホそして交通系ICカードのみが入った黒のショルダーバッグを肩に掛けている。更に、右手には紺色の傘を手にしている。  毛先のみを淡いクリーム色で染めた、髪型は前回来た時と変わらない。 「日高君いらっしゃい。どうぞ上がって」まどかは声を掛ける。 「お邪魔します」と断り、靴を脱ぎ揃え部屋に足を踏み入れた。  玄関を上がると、直ぐにリビングダイニングが見える。奥から、テレビの賑やかな声が聞こえて来る。 「如月さん」まどかの背を見つつ声を掛ける。まどかの返事を待たず、言葉を続ける。 「何度も言ってますけど、鍵掛けた方がいいですよ。幾らなんでも不用心です」  これまで幾度となく、まどかの部屋を訪れているが、鍵が掛かっていることの方が珍しい。  必要以上に依頼主の生活に、口を挟むべきではないことは承知している。だが、まどかのルーズな面を目にする度、口を挟まずにはいられない。蓮から見れば、まどかのルーズな面はいつか、彼女が危険な目に合わないか危惧している。  いや。違うか。と蓮は考え直す。  こうして二十代の女性の一人暮らしの部屋に、大学生の自分が月に何度か訪ねていることの方が、不用心ではないだろうか―。  蓮の胸中を知ってか知らずか、まどかは生返事をするのみである。 「キッチン借ります」そう断ると、蓮は手提げ鞄とショルダーバックを台所の床に置いた。  二口のガスコンロと魚焼きグリル、電子レンジ、電気ポット、炊飯器……。まどかの台所の設備は、一人暮らしとしては充分である。  手提げ鞄の前にしゃがみ込むと、鮭の切り身と液体の白だし、卵、千切りした大葉と小口切りした葱、白ごまが入っている長方形の小さな耐熱容器を取り出す。更に、昨日のメッセージを見て、急遽購入してきた網をコンロの上に置く。  卵が割れていないことに安堵する。  耐熱容器と卵は冷蔵庫の中に入れ、鮭の切り身と液体の白だしはシンクの横に置く。    料理を始める前に、石鹸でよく手を洗う。  俎板の上に、鮭の切り身を置き軽く塩を振ると、魚焼きグリルの中に入れつまみを回す。  その間に一度俎板と手を洗い、炊飯器を開けお米が炊けているか確認を取る。炊飯器を開けた刹那、炊き立ての白飯の香りに思わず顔が綻ぶ。用意していたプラスチック製の手袋をはめ、水で濡らしお米を三角のおにぎりに固く握り網の上に乗せる。  コンロに火をつけ、時折醤油を垂らしながらおにぎりを焼いていく。  醤油の香ばしい匂いが部屋に漂い、まどかはテレビを消し料理をしている蓮に近づく。料理中、まどかが蓮の様子を見に来ることは珍しくない為、蓮も手を止めることもなく、焼き具合を見ながら箸でひっくり返す。  コンロの上で、おにぎりが黄褐色の香ばしく焼かれている。香りと焦げ目の付き具合に、まどかの食欲が刺激され、腹の虫が騒ぎだす。  と同時に、昨晩のメッセージの謎が解け頷く。蓮ははじめから、焼きおにぎりを作るつもりだったのだと合点がいった。 「だから網……」邪魔してはいけない、と承知しているがつい声が漏れる。  まどかの呟きに、蓮は頷きつつ口を開く。 「フライパンでも出来ないこともないのですが……。この方が、格段に美味しくなるので」  フライパンを用いて焼く方が簡単なのは間違いない。だが油を使う為、焼き上がりが脂っこくなってしまうのが難点である。  蓮の得意げな物言いに、まどかは気づかれぬように肩を揺らす。  料理中の蓮の表情は真剣そのものだ。一途で妥協がない。  自分ならば、面倒で投げ出してしまう工程も、省略することがない。この焼きおにぎりも自分なら、インスタントのものを温めるのみになっていただろう。
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