金曜日の推し活

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 七月に入り、すんなり梅雨が明けるのかと思っていたが、現実はそう甘くはないらしい。  梅雨末期特有の大雨が降り続き、空は鈍色の雲に覆われている。  雨の為か気温も上がらず、まどかは仕事用のブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織っている。  暑いよりマシ、と自分に言い聞かせるが寒い気候も身体にこたえる。  蓮が訪ねる前日の木曜日。  その日は、朝から雨が強弱を繰り返しながら降り続き、時折雷鳴が鳴り響いていた。オフィスでは雷が苦手という、後輩の女性社員が雷鳴を聞くたびに、身を竦めている。    午後十二時過ぎ。  昼食の為に、多くの社員が社内食堂に足を運ぶ中、まどかは珍しくデスクの上で自作のお弁当を広げていた。  普段なら、まどかも他の社員と共に食堂に向かうが、前日時間があり簡単なお弁当を作って来たのである。  とは言っても、蓮のような凝ったものは作れない。  タッパーにご飯を詰めて、玉子焼きとウインナーを詰め、出勤前にコンビニで購入したサラダを添えた、なんとも簡単な蓮の足元にも及ばないお弁当である。 「いただきます」箸を手に取り、玉子焼きを口に運ぶ。  砂糖を入れ過ぎたのか、思ったよりも甘い。  お弁当を食べながら、まどかはデスクの上に置いてあるスマホを凝視する。  普段なら、蓮から明日のメニューについてメッセージが入るはずだが、この日はまだ届いていない。 私の好きなものを作ると言っていたから、何かサプライズをするつもりだろうか―。  そう思案するが、それにしても何も連絡がないのはおかしい。 いっそのこと、私からメッセージを送ってみようか―。  時刻は午後十二時十五分。 この時間なら、メッセージを送信しても迷惑にはならないだろう―。  まどかは一旦箸を置き、スマホに手を伸ばした。  スマホを手に取り、アプリを開く。  メッセージ画面を表示したまどかの口から、「えっ?」という呆けた声が漏れた。    メッセージ画面には、蓮とのやり取りが跡形もなく消えていた。 どうして―。  何が起こったのか詳細がつかめないまま、まどかは検索画面で蓮の名前を打ち込み検索を掛けてみる。  だが、そこに表示されていたのは“ユーザーが見つかりません”という、素っ気ない一文のみであった。  まどかは素っ気ない一文が表示された画面を、穴が開くほど見つめている。  文章の意味は分かるのだが、なんで、どうして、とう疑問ばかりが頭の中に渦巻く。  まどかは蓮と最後に会った日のことを思い出す。  最後に来た際、特に変わった様子はなかったと記憶してる。次回の依頼をキャンセルさせてほしいと、申し出たこと以外は。  あの時、友人と食事に行くと言っていた。 その場で、何か言われたのだろうか―。 連絡もせず退会するのだから、余程のことがあったのだろうか―。  まどかには、蓮が理由なくまして連絡もせずに退会する人物には思えなかった。  いつかは蓮が退会する日が来ることを、まどかは予想していた。だが、まさかこんなに早く、まどかに何も告げずに退会するなど予想もしていなかった。  当分の間、まどかの推しでいてくれると思っていた。    今すぐにでも、連絡を取り事情を説明してもらいたい衝動に駆られる。  だが、まどかは蓮のSNSや電話番号はおろか、住所や通っている大学や学部さえ知らない。知っているのは、料理が得意で口数の少ない都内の大学生、ということだけである。  連絡も cooking meet のメッセージでしか取っていない。  蓮が退会すると決めたのならば、まどかにそれを止める権限はない。蓮には蓮の将来がある。  まどかには蓮が、実在するのかしないのかさえ曖昧な人物に思える。 先月まで会っていた、日高 蓮という人物は、本当は何者だったのだろう―。  まどかは言葉にならない思いを抱えたまま、スマホを置き箸を手に取る。  再びお弁当を食べ始める。だが、どれを食べても薄味に感じた。  翌日。  金曜日ということもあり、終業後に他の社員が外食に向かう。まどかもたまには、と誘われたがもしかたら蓮が訪ねて来るかもしれないという、微かな期待から誘いを断り一人家路に付く。  昨日と同じく、雨は降り続いていたが、雨脚は弱まっている。  今朝の天気予報では、早ければ来週中には梅雨明けするだろうと、告げていた。 「ただいま……」誰に聞かせるでもなく、アパートの戸を開け足を踏み入れるとまどかはそう呟いた。  戸を閉め鍵を掛けると、靴を履いたまま戸に凭れ掛かる。  玄関のみ電気を付けている為、奥は闇に包まれている。  いつまでも、戸に凭れ掛かっている訳にもいかない。まどかは軽く息を吐き、靴を脱ぎ廊下を進む。  台所に繋がる扉を開け、部屋の電気を付ける。鞄をベッドの上に無造作に置くと、意味もなくテレビを付ける。賑やかなアナウンサーやタレントの声が、部屋に響いていく。  どれぐらい、テレビを眺めていたのだろう。  時刻は午後七時半を差している。 何か食べよ―。  まどかは重い腰を上げ、台所に向かう。  退会したのだから当然だが、蓮は訪ねていない。    もしかしたら…という期待があった。 退会したのは彼のミスで、いつものように料理を振る舞いに来てくれるのではないか―。  まどかの淡い期待は、あっさりと打ち砕かれる。  頭では蓮が決めたことを、自分がどうこうできないことだとは分かっている。  だが、もう会うことも彼が作った料理を食べることもないのだと思うと、寂しさが迫る。  台所で、まどかのため息が空気を揺らした。    
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