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翌日、彼女を気づかれないように、朝一で家を出た。足場の悪い獣道を踏みながら、正気を取り戻した私は、酷く後悔していた。
あれはきっと彼女の策略だった。自分を助けさせ、私に自分の命の責任を負わせたかったのだろう。じゃなきゃあんなに都合のいいタイミングで鉢合わせするわけがない。彼女の流した血は少しも固まっていなかった。それが確たる根拠だ。彼女は私がまた逃げ出さないように、今度は果てしなく重たい責任を押し付けたかった。
彼女が垂らした言葉は、蜘蛛の糸だ。今更気づいても、もう遅い、彼女の言葉は私の身体を容易に締め付け、逃げ場を無くした。大人として振る舞うには、もう彼女を振り解けない。それを彼女は分かっていた。
もう森を怖いと思う余裕はどこにもなかった。
重たい頭を抱えて、職員室につくと、おもむろに後ろから手を引かれ、誰もいない給湯室に押し込められた。
「びっくりした…」
「志木先生、いままでどこにいたんですか」
進藤先生は息を切らして、焦った様子だった。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「先生ずっと探してたんですよ」
「探してた?」
「先生、電話したのに一切繋がらないから…」
電話した?かかってきてたか?
急いでカバンからスマホを取り出し、見てみると確かに13件の通知が残っており、全て進藤先生からのものだった。でもなんで気づかなかったんだろう。ここに引っ越す前に買い換えたばかりだし、故障は考えにくいし。通信回線の不具合だろうか。
「もしかして圏外の場所にいましたか?」
スマホを凝視していると、進藤先生は限りなく私の耳に口を近づけてそう耳打ちした。
昨日の獣道がフラッシュバックする。顔が熱くなっていく。やばい、冷静でいろ、このままじゃ悟られてしまう。
「いや、多分スマホの不調ですね」
在り来りな嘘をついた。そりゃそうだ、あんな森の中で電波がある方がおかしい。弘中雪の家は圏外エリアにあるのか。田舎暮らしに慣れたと思っていたが、そういう可能性があることを考えていなかった。
「そうですか」
これはきっと誤魔化せていないな。眼鏡越しに見る、進藤先生の目には、嘘を見抜こうとする鋭さがあった。疑っている目だった。
「でも何の用だったんですか」
しかしプライベートの時間をどう過ごそうが、個人の自由だ。同僚とはいえ、用事があったとはいえ、深く詮索するのはどうなのか。どうせ生徒がどうとか、そういう話だろう。他が対処できることだろうし、別に私が必要ってわけでもない。そう高を括り、どこか勝気だった。だから余裕があるようにに振舞った。
しかし進藤先生が口にしたのは、自分の想像をはるかに超えるもので、私は直ぐに玉砕することになる。
「昨日の晩、坂田さんが川辺で亡くなってるのが発見されたらしいですよ」
「は?誰ですかその人」
「弘中雪の母親が起こした事件の被害者遺族です」
今日の未明。この町を分断するように流れる大きな川で、とある人の水死体が見つかった。第1発見者は、駐在所の人間で、近年日本各地で多発する畑泥棒対策として見回りをしていたらしい。
「そしてみんないちばん怪しい弘中雪の所在を探しています」
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