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「いや、彼女、最近よく笑うようになりましたし、睡眠も取れるようになったらしいですよ」
そんなに心配するようなことではないと、確信するように、私は何年も長くこの場で仕事をしている、浜崎先生に向かってそう断言した。 私の記憶には、昨日は八時間睡眠だったと、嬉しそうに話す彼女がいたのだ。
「親しいというより、彼女に余裕が生まれてきたというだけだと思いますよ」
そして、ああ、確かに、彼女と話す機会がないと怖いものかと。空元気という言葉があるように、客観的に見える人の快活さには多種多様の理由が孕んでいる。担任なりに、あの状態の訳が知りたいのかと、時間をかけて納得したのに。
「あぁ、そうですか」
何かを飲み込むように言葉を発する浜崎先生。しかし次第に耐えられなくなったのか、だんだんと苦虫を噛み潰したように、顔を顰めていく。
「志木先生、あまり心を許さない方がいいですよ彼女には」
彼の絞り出した答えに、私は耳を疑った。教師になると誓った日に、初めて鮮明に見えた大人と子供の境界線。ここを越えらる人間にしか許されない職業だと、誇りを持っていたのに。
私は彼女という俗称が、弘中雪という少女に当てられたものだと瞬時に理解できなかった。だから無意識に、年上の教師に向かって
「は?」
と声を上げた。
「先生の身を案じてのことですからね。志木先生は、今危険な状態にあるって理解されてはいようなので、」
「え、弘中雪ですよね。何も分かっていない子供ですよね?」
私は、何か誤解を招いてしまったと、焦るように彼女の名前を口にするが、私のその様子を見て浜崎先生は、さらに顔を顰める。
「先生、あんまり彼女を甘く見ない方がいいです。彼女はほら、あの犯罪者の娘なんですから」
「そうですよ。子供だからって隙を見せたら、何されるか。怖いったらありゃしない」
浜崎先生を加勢するように、どこからかそんな声が生まれる。そしてその声を合図に、そうだそうだと、団結するかのように、職員室内の空気は暖かくなっていく。
私はいま、何を見せられているんだ?複数の大人たちが寄ってたかって、何を言っているんだ?相手は心が弱りきった子供だ。そんな子に、この人たちはどうしてそんな酷いことが言えるんだろうか。
混乱する頭と、瞬きすら出来なくなった瞳。あまりの衝撃に愛想笑いも適当な相槌も打てなくなり、固まって何も言えなくなった。
「早く、距離を置いた方がいいですよ、志木先生」
そんな私にカウンセリングをしてくれと持ちかけた進藤先生がそんなことを言った。
その時気がついた。ずっと心の端にあった違和感の正体。経験のない教員に、生徒のカウンセリングを任せる異常性。
ああこの町には、この町特有の大きな恐怖感情が蔓延している。そしてその恐怖の対象は、彼女の存在自身だ。
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