夢を見る

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   彼女弘中雪(ひろなかゆき)は、この学校の生徒だ。初めて会った場所はきっと校内。教師と生徒という間柄に、どれほどの距離が必要なのかは、深く考えたことはない。だが私の信念には、生徒A、生徒Bというラベルを貼るべきだというものがある。一人一人干渉するべきでは無い。ただ道を踏み外さないように見張って、危なくなったら軽く手直ししていくだけでいい。   「先生とは老後、海の見える町に引っ越すというプランがあるから、絶対に長生きして欲しいんです」   しかし彼女は必ずといっていいほど、その紙を引き剥がす。私が距離を取るタイミングが分からなのか。   「なるほどね」 「これも愛です」   私が油断していると分かった瞬間、彼女は全速力で駆け寄り、私の人生に干渉してくる。 AくんBさんCくん。弘中雪さん。   「先生の健康を思って言ってるんですよ」 「屋上は立ち入り禁止ですよ」 「もちろんこれも愛です」 彼女は隣に来て軽く伸びをした。仄かに香る牛乳石鹸の匂い。艶やかな髪と、きめ細やかな白艶な肌。簡単には手に入らない彼女が放つ異様な雰囲気。どれも同世代の男なら好きになる要素だ。きっと彼女を見て、ころっと落ちる男の子は沢山いる。 「大好きですよ先生」 彼女は私の目を見て、可愛げに笑って見せた。 これが生徒に深く関与してしまう罪だ。自分が生徒にとって大切な人の一人になってしまったこと。子供の介入してはいけない領域に片足を突っ込んでいるこの状況。自分が1番軽蔑していた人間に成り果てようとしている。   『先生、いまお時間大丈夫ですか?』   私は事を始まりを思い出す。 『はい、どうかされましたか?』   ある真夏の日だった。職員室の角の席。空調が当たらない上に、湿気やすくて、ジメジメした空気の悪い場所。晩年具合の悪い年長者たちと違い、若い奴はある程度、悪環境でも生きていけるだろうと、用意された特等席のようなものだ。私は暑さで働かなくなった頭を起こし、機械的に行っていた単純作業を止めて、隣に立つ先生に目を向けた。 ぼやけた視界の先にいたのは、年が一番近い進藤先生だった。進藤先生は、眉間に皺を寄せ、不安げな顔をしていた。声をかけられたときの、声色の高さからは感じられなかった、その深刻そう表情に驚き、一瞬で身構えた。それなのに。 「志木先生は過去に大学で、心理学を専攻されていたとお聞きしたのですが、本当ですか?」 「はい、一応そうですけど」   意図がわからない質問に素直に答えた。その瞬間あからさまに明るい雰囲気を漏らす。表情が緩み、口角を上げる。その様子を見て 「ああ…」 しくじったとすぐに後悔した。完全に暑さのせいだ。いつも自分のことを聞かれた時は、どうして知りたいのかと深く追求するのに、その日だけはしなかった。  私は彼女に乗り掛かる何かが、こちらに向かって歩いてくる気味の悪さを全身で感じ取った。しかし時すでに遅し。やっぱりと、嘘をついてでも逃げようとしたが、彼女の笑顔がそれを許さなかった。私は完全に宛てがわれたのだ。 進藤先生から任された仕事は、簡単に言えば、弘中雪という少女のカウンセリングをして内情を探ること。要するに監視役だ。彼女と親しくなり、彼女が道を踏み外さないように、枷になってほしいという。若いんだから、それぐらいできるでしょう。貴方は外から来たんだから、それぐらいやった方が貴方も居座りやすいでしょうという、先輩たちからの思し召し。 正直、頼まれた時は、自分自身もまあそれぐらいならいいかと、軽んじていたところがあった。
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