9人が本棚に入れています
本棚に追加
それから年が明けた。
冬休みに入る前、年末年始には大寒波がやってくるとニュースで大々的に報じられていたため、九州育ちの私は、雪を恐れて家から一歩も出ずに冬休みを過ごした。しかし仕事始めの日に外に出てみると、その名残は全くなく、道路が路面凍結するぐらいで、よく見る冬の日常がそこにはあった。私は休み前と変わらず、同じ時刻に職員室に向かい、忙しなく動き続ける人たちをよけ、コーヒーを片手に席についた。教員は冬休みが明けると、より一層忙しくなる。しかしクラスを持っていない私の仕事は、手が足りずに後回しにされた冬休みの宿題に目を通すだけ。
積み上げられたノートをひとつ取り、ペラペラと捲って読み進めた。
「志木先生、あとどれぐらいで終わります?」
「十五分ぐらいですかね」
「え、こんなにあるのに?」
「そうですね」
「都会で働いていた人は効率的で仕事が早いから助かるわぁ。全部任せちゃおうかしら」
「いえいえ、そんな事ないですよ」
頭上から降ってきた言葉に、片手間で答える。確かに前にいた学校では、進学する生徒がほとんどだったため、一語一句逃さず読み解き、時には意地の悪い指摘をするために、一人一人時間をかけていた。しかしここではそんな手間を取らなくていいから気楽でいい。宿題をしてさえいればいい。その基準しかないから、いちいち神経尖らせる必要も無い。
ある程度終わり一息つこうと、給湯器に向かう道中で「渉せんせーい」と声をかけられた。その声の主は、職員室の入口の前で、こちらに向かって手を振り、ぱくぱく動かして何を伝えようとしている。はぁ、めんどくさいな。この時期はどうしてもそう思ってしまう。冬休み明けは直ぐにテスト週間に入るため、職員室は生徒の出入りが禁止される。だから生徒に呼ばれる度にこちらから出向くという手間が1つ増えるのだ。それがどうしても煩わしい。
空になったコーヒーカップを自席に置き、頭を掻きながら出入口に向かうと、ヒソヒソと他の先生たちの話し声が聞こえてきた。どうせまた、生徒との距離が近いだなんて変な噂話でもしてるのだろう。好奇の目が物語っている。
「二次関数やろうよー」
職員室の出入り口につくなり、女子生徒は遊びに誘うような口ぶりで、腕に絡みついてきた。
「ちょっと近いです」
「えー近い?」
自分の服と彼女の制服が擦れる度に、鼻を刺すほど強烈な匂いが宙に舞う。この町では珍しい、身なりに気を使っているタイプ。だからこそ、香水をつけすぎだと言うべきだろうか。少し迷い、自分の性別を考えて、口を噤む。
「二次関数ですか?」
できるだけ自然に、相手から悟られないように細心の注意を払いながら腕を解く。そしてその最中に、彼女の手元を見た。やっぱり手ぶらだ。教科書はおろか、シャーペンひとつも持っていない。上履きの色は赤いから3年生だ。
「どこで?」
彼女の顔がピクリと固まる。気をつけていたが、思いのほか低い声が出てしまった。
「自習室は空いてないですよ今日は」
「あ、えっと私の教室で?」
「ここじゃだめですか?」
「ええーダメだよー意味ないじゃん」
ああ、これはきっと年頃の女の子がやりがちなマウンティング行動だろう。別に私にも数学にも興味があるわけではないが、この学校内で一番若い教師と一緒にいるところを友達に見せつけたい。三年なら、年上の男は教員だけになる。ある程度は仕方がないことだとは理解しているが、女子生徒一人一人の優位だと思う立場が曖昧なせいで、ちょっと対応を間違えれば相手を傷つけてしまう。
私は無意識のうちに深いため息をついた。それを彼女は見逃さなかった。
「えーすごい嫌そう」
私の顔を覗き込む女子生徒が、あからさまに落胆したような表情をする。
「沢谷先生呼びますね」
しかしそれだけでは、絆されない。彼女は沢谷という名前を耳にすると、顔を歪ませ、あからさまに嫌そうな顔をした。
「えー嫌だ!サワヤン怖いもん」
「そもそも私は科学担当なので、プロに聞いた方が効率的で良いですよ」
「えーやだ!」
「時間の無駄ですしね」
もっと有意義な使い方をするべきだ。そう助言するべきか迷ったが、こういう生徒は次から次へと言い訳をすると考え、労力を最小限に抑えるために、彼女に背を向けた。
「もぉーノリ悪!渉先生って、なんでそんなに距離取りたがるの?」
絡みつくように、再度私の腕に手をまわす。そしてユラユラと身体を揺らす彼女を、夕日が差し、意図的に赤く染められた頬をキラキラと光らせる。化粧禁止の校則すら守れない生徒のマウンティングに加担する利点が、何一つ浮かばないと正直に言ったら、きっとこの子は人間関係において初めての挫折をするのだろう。そんなつもりはなかったと、恥ずかしくなり、こんな辱めを受けたことに腹が立ち、私を恨むのだろう。もし立ち直れなかったら?きっかけを作ったわたしは、手を差し伸べてあげられない。実質一人の生徒を見捨てることになるのだ。救わないのと救えないは違う。やはり一定の距離は必要だ。なんて妄想して、それらしい理由を考えて、いつも逃げ場を作る。
「すみません、数学頑張ってくださいね」
今は無理だ。私は冷静に適切な言葉を告げ、腕を解いた。
「あーあさいあく…」
息を多く含んだ、小さな本音。彼女の本音を、私の耳は聞き逃さない。教師になって数年。子供たちからの心無い言葉を投げつけられた経験は、割とある方だと思っている。ガッカリしたと、面と向かって言われたことだってある。それでも、このスタンスを貫くのは、そんな言葉を気にしたって仕方がないと理解しているからだ。子供は不安定で、今にも倒れそうなぐらい脆い。だから後先考えずに、直ぐに不安を口にする。それに誠心誠意対応していたらキリがないだろう。聞こえなかったフリをして、限界がきたら助けてあげるぐらいにしておくべきだ。いずれ無関係になる人間に深入りして、ずっと手が離せない状態になった時の方が、悲惨なことになると思うから。
そう頭では理解しているのに、私は無意識に”彼女”の後ろ姿を思い出す。
“疎外感に耐えられなかったって言えばいいのに”
下を向いて捨て台詞を吐いた彼女は、ぱっと顔を上げ、私を視線で捉えると、全てを見透かしたように瞳を細め、軽く鼻で笑ったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!