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最悪だ。あの日を境に、自分の判断に自信が持てなくなっている。
「渉先生って彼女とかいるの?」
彼女は横目で私をチラリと一瞥する。その目の輝きが、彼女の自信を表している。どうしてこんな子に、あの子を重ねてしまったのだろう。
「いないですね」
「本当に?」
「はい」
「えーなんでいそうなのにー」
教室につくなり彼女は一直線で自分の席に向かうと、そのまま腰かけ、顎でそこに座れと指示してきた。彼女の指示通りに動くのは、癪だったが、渋々彼女の目の前の席まで歩く。
「えーでもモテそうなのになんで?」
「さぁ、なんででしょうね」
さっきから彼女の甲高い声が、酷く耳に刺さる。頭に響き、じわじわと痛みになって、全体に広がる。忍耐力のない私はその不快感に耐えられず、一応にと持ってきた、それなりに重たい教科書を机の上に置くと、自分が思っている以上に大きな衝撃音が鳴り、生徒数人の話し声が数秒止まった。私はマズいと、咳払いをする。
「なんか怒ってる?」
しかしどうやら手遅れだったようで、彼女は私の本心を見逃さなかった。本当にどうしてこんなに感情的になってしまうのだろう。こうならないためにも、一線を引いて冷静でいたのに、彼女と会わなくなってから、心はどこか不安定で、どうしようもないことばかりにイライラしてしまう。私は咄嗟に銀縁メガネのブリッジに触れ、顔を隠すように
「やりましょうか数学。早く教科書出してください」
と仕切り直しを画策するが、
「先生ってなんでそんなに感じ悪いの?」
彼女は一度断れたことへの仕返しか、直接的な言葉で再度、私に疑問をぶつけた。正直拍子抜けだった。近頃、若い子は殴り合いの喧嘩をしなくなったと、初めて赴任した先の教頭が言っていたが、嘘じゃないか。こんなに自分の思っていることをハッキリという子がいるなんて、若い子は自分の見てくればかりに気を使って、相手の評価を1番に気にするのではないのか。
「ねえ、なんでなの?」
「いや、そうですかね」
「うん、めちゃくちゃ感じ悪くて嫌な人だよ先生。なんでそんな感じなの?」
「まあ、そうですね」
軽く受け流そうとするが、もっとハッキリとした言葉を投げかけられる。彼女は適当に流す人間の逃げ場を潰す方法を知っているようだ。
大人の体裁が打ち勝った私は、無意識に絞り出したような唸り声を漏らしながら、何と言うべきか考えた。そして天井の先を見つめて、脳を整理する時間を稼いでいた時、彼女のぶっきらぼうに投げ出された足と私の足が触れた。その瞬間、反射的に彼女の目を真っ直ぐと見てしまった。そして気がついた。彼女は想像以上に本気で知りたいと思っているということを。彼女の目には真剣さが滲み出ていた。
「まぁ期待されないためですかね」
「期待?なにそれー」
子供が知りたがってるなら教えてあげるのが、教師の仕事だ。いま目の前にいる彼女を蔑ろにすれば、もう教師ではいられなくなるような気がした私は、仕方がない仕方がないと頭で唱えながら、できるだけ小さな声で話始めた。
「ヒーローだと思われたくないんですよ」
「えーヒーロー?アンパンマンってこと?」
しかしどこか楽天的な彼女は、私の真剣な声色を嘲笑するかのように軽く受け流す。
「落ち込んだ生徒に声をかけて、依存されて期待されて、よし頑張るぞって思っても、やっぱりどうにもならないことってあるじゃないですか、人生って。自分はそこまで優れた人間では無いって理解してるから、ガッカリさせない為にも距離を取ってるんです。出来ないと突っぱねる以上に、1度期待させて裏切る方が辛いのかなって」
自分で言っていて、そんな理由だったのかと他人事のように思った。
「えーわかんない。それって距離取り方が下手くそな先生が悪くない?子供が大人を頼りたくなるのは当たり前じゃん」
「…ははっ」
「え、こわ。何笑ってんの?」
至極当然だ。教師なら生徒の悩みに耳を傾け、一緒に解決へと事を進めてあげるべきだ。子供一人が、教師一人に依存してしまうなら、その子供の環境に問題がある。そこを打開してあげなければ何一つ解決しないと、頭では理解してはいるつもりだが、改めて子供に指摘されると恥ずかしくて笑いが出てくる。
「私たちが期待してるのは、人生の楽しみ方ぐらい、そういうのでいいんだよ先生」
「それでも、知りたいことを教えてくれなかったらガッカリしませんか?」
「あーまあそれは、精神終わってたら、知ってて欲しいなって思っちゃうかもなー。八つ当たりってやつ?」
「もしあなたがどん底で、暗い世界で生きてるとして、一瞬見えた唯一の光がまやかしだったら絶望しません?」
弘中雪のカウンセリングをすると決まったときも、思っていたことだった。そんな生い立ちの子に寄り添って、話を聞いても、絶対にどうすることも出来ないと思っていた。実際に彼女の抱える闇は何一つ見えてこなかった。自分の思考の幅の狭さでは、彼女を救えないとどこかで分かっていた。自分の能力不足は始める前から感じていたことだ。
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