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目の前にいる彼女は、
「まやかしってジジイ臭」
と笑いながら、机のフックにかけてある鞄からがスマートフォンを取り出し、そのままお腹の前で操作し始める。
その一連の動作がスムーズで、スマートフォンは校内持ち込み禁止だと注意するタイミングを失った私は、頭をさげ見えないフリをする。
「それでも先生ってそういうもんじゃん。家でこんなにしんどいのに、学校でもこんな対応されたらそれこそ本当に絶望しちゃうよ、わたるん」
「わたるん?私のことですか?」
「まあね、わたるんの言ってることも理解はできるんだけど、それでも先生が歯を食いしばって自分のために動いてくれたら、それはそれで嬉しいんだよ。これを依存って言うなら難しいけど、まだ希望はあるって思えるんだよ」
「貴方は意外と大人な考え方をしているんですね」
「そうなんだよね〜。夏希って意外と賢いんだぁ」
「夏希さんの上の苗字は?」
「え、白川。つか先生覚えてくれてないのー」
白川夏希、見覚えがあると思っていたが、初めて聞いた名前だ。どうやら勘違いしていたらしい。
白川夏希はこちらを見向きもせずに、「ショックー」と雄叫びを上げると、それ以降は何も言わずに、ただずっとスマホを触り続けた。
久しぶりに自分の考えを整理した私の頭は、冷静さを取り戻し、すっきりとした爽快感だけを残した。しかしそのせいで、子供に相談する恥ずかしい大人という構図に気づいてしまい、足の先からムズムズとした違和感が這い上がってきて、耐えられなくなってきた。
もう勉強なんてする気ないだろう。スマホを触り続ける彼女を横目に、そう見切りをつけて逃げようと、広げた教科書をそっと閉じた。そして今度は小さな音でトントンと整え立ち上がった。
「ちょっと待って、はいこれ」
「なんですか?これ」
立ち上がった私に、彼女は勢いよく顔を上げ、慌ててスマホを突き出してきた。その画面には、山奥だと思える場所にぽつんと小さなプレハブ小屋のようなものが写っている。
「何これって、雪の家だよ」
「これが雪さんの家…」
こんなに所に人が住めるのかという恐怖。
"今は祖母と二人暮ししています。祖母が作る料理はすごく美味しくて、週末はいつもレシピを教えて貰ってるんです
"素晴らしいですね"
過去の会話がフラッシュバックする。あの時私は、それなりに広い部屋で二人、小さな幸せを噛み締める雪さんとおばあさんを、想像していた。だってマンションやアパートがない町だから、必然的にそこそこ広い家で、不便のない暮らしをしているものだろうと思うのは、自然なことだろ。実際に、私の家も近所も、広い一軒家ばかりだ。こんな建物が家として存在しているなんて、思いもしなかった。
驚き言葉を失う私を鞭打つように、目の前にいる彼女は腹から大きな声を出す。
「なんですねじゃないよ!行ってきてよ!」
「え、行ってきて?」
「私たちが行っても、雪会ってくれないし、おばあちゃんは忙しいから、家に帰れてないらしいし、孤独で死んでたら怖いじゃん。ほら最近若い人も孤独死するってテレビで言ってたし」
「いや孤独死は突然死しても見つからないことであって孤独で死に至るってことではないですよ」
「うるさいなぁー!雪が心配じゃないの?」
「いや、まあそうですね」
「軽く2週間ぐらい見てないんだよ、雪のこと」
それは確かに心配だ。何となく見かけないなとは思っていたが、まさか学校に来てないとは。誰が一度様子を見に行くべきではある。
"今は先生がいてくれるから"
しかし私はその生徒を突き放したんだ。もう一度彼女に手を差し伸べるなんて許されるのだろうか。それこそ、人でなしのすることではないのか。自分がいなくても大丈夫だと言い切って、また前の生活に戻れば彼女は自信を失うのではないのか。ぽろぽろと溢れる消極的な思考に、惑わされ直ぐに決断はできない。大人は一貫性があるから大人なのだ。その姿勢を簡単に崩していいものなのか。
「わたるん!」
唐突に私の名前を呼んだ彼女は、また私を奮起させるように、今度は手を叩き大きな音を出した。
「よし行こう。途中まで案内するから!」
私の意見は一切聞かず、彼女は即座に決断した。彼女はウジウジとうずくまる私を蹴散らし、目的地へ歩みを進めた。その後ろ姿には、あの時の彼女の後ろ姿には全くない逞しさがあった。
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