プロローグ

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プロローグ

どうしてか息苦しい。締め切った部屋の中で、掃除されていないエアコンの風を浴び続けているからなのか。それともみんなの吐いた息のせいで、室内の酸素が薄くなっているからなのか。外は凍てつく寒さなのに、ここにいると脂汗をかいてしまうほど、身体に熱が篭ってしまっている。 「皆さん、健康でいることが幸せです。早寝早起きし、健康的な生活を送りましょう。車を使わずに是非徒歩で。その一歩こそ健康への近道です」 人権教育という名のよく分からない講演会。壇上に立つ助ける気のない講師。階段席で立ち続ける助かる気のない聴衆。ただただ無価値な時間が流れている。ここでは得られるのは、強制参加という名の元に与えられる、自分はまともな人間で、周りと足並み揃えて生きていけるという証だけ。あの時はそんなの必要ないと拒みたくて仕方なかった。いち早く出て行きたかったのに。 「やめてくれ」 どうして今それを思い出す。もう戻れない所に行こうとしているからか。鈍い思考は、後の未来を一向に想像できない。自分にはその選択しか残っていないと思ってしまうぐらいには、窮地に立っているのだろうか。もう自分の足元すら見えない。 右手で刃物をしっかりと握りしめて、ゆっくりと息を吸った。 「今から貴方を殺します」 だから健康のためだ。貴方がいると心が帳を掛けられたような、真っ暗な闇に包まれたままなんだ。貴方がいると絶望的な未来でさえ来ないような気がするんだ。口から出た宣言に、相手は顔を歪めた。 鯉も人間も雑食だ。他者を食らってでも生き長らえる。 頭の中で学校の中庭にいた鯉を思い出した。誰からも世話されなくなった鯉たちは共食いに走り、最後の1匹は気味悪がられて川に放たれた。あの子は自由を手に入れたんだ。 何も間違ってないだろう。 それが食らう側の作法だと、昔習ったことがあったから、感謝の気持ちを作った。これが人生だとなんども頭の中で唱えた。 「ごめんなさい、ありがとう」 予想外だった。振り下ろした刃は、その勢いだけで、すんなりとどんどん奥に入っていった。そして半分ほど埋まったところで感触が変わり、止まった。もう一度力を込めて押し込むと、下から呻き声が上がってきた。 「あ、これ肝臓か」 ぐちゅりと中の患部は擦りあって音を立てた。初めて聞く音だった。それはしっかりと脳裏にこびりつき、大きな穴をあけた。酷い頭痛も止まった。
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