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 義経は膝においた両手で硬い拳をつくった。声はよくよく秀衡に似ていた。数十年前、初めて対面した奥州の鎮守府将軍は、堂々として温かかった。実の父を知らない義経は、我知らず秀衡に父の俤を重ねていたのかもしれない。歳月が過ぎ、病床に臥せるようになった秀衡を見舞い、義経はうろたえた。秀衡は別人のように衰えていた。病がどれだけ蝕んでいたのか。だが亡くなる数日前に見舞いに訪れると、痩せ細った頬に力ない笑みを浮かべ「判官殿、こちらへお出でなさい」と優しく言葉をかけられた。義経は胸が詰まって、泣いた。それは逝く者の姿だった。  義経は秀衡に責められているようで、心が痛くなった。もしや、秀衡公の御霊が自分を連れてゆくために、舞い戻ってきたのだろうか。もしや…… 「お前はこの地に深く関わってしまった」  冷たい声風が耳に突き刺さった。義経は首筋に鳥肌が立つのを感じた。 「遠い昔に、この地を攻めた男のように」 「……何を申す」 「あの男も裁かれた。長きにわたり、戦をした咎によって」 「……八幡殿のことか」  声が頷いたようだった。 「偽りを申すな!」  義経はいきり立って叫んだ。今の代から四代ほど遡る先祖の八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)は、数百年昔に征夷大将軍として陸奥を征伐した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)共々、天下第一武勇之士と称えられた世に名高い武将であった。その武勇は田村麻呂と等しく、陸奥での二度における戦の功名で高まり、死後は伝説と化した。 「八幡殿を辱めるか!」 「お黙りなされ」  しゃがれ声は尋常ではなかった。 「あの男も、この地を変えた」  八幡太郎義家とその父が戦った相手は、この地を治めていた安倍一族だった。奥州十二年合戦とも呼ばれる戦で滅び、代わって義家たちに味方した清原一族が支配することとなった。だがその一族も内紛が起こり、再び舞い戻った義家が力を貸した相手、安倍一族を母に持つ藤原清衡が実権を握ると、平泉に都を築いた。奥州藤原氏の祖である。 「ようやくこの地が鎮まった。だが、今度はお前がやって来た。やがてまた変わる」  その意味する処に、義経は顎を下げ疲れたように顔を伏せた。秀衡公の遺言はこうだった。鎌倉から己を討つよう書状が届いてもそれを無視し、残された子息たちと自分で鎌倉の軍勢に立ち向かい奥州を護るように――  だがそれは果たされない。義経は無念に思った。泰衡は自分の頸を鎌倉へ送る。それで終わるだろうか…… 「それは、神々もとめようがない。だから、お前を裁くために現れたのだ」  義経は火焔を睨んだ。心なしか、上に下に大きくなって見える。話し声は荒波のように耳障りになってきた。  秀衡公のはずがない。義経は念仏を唱え、目の前に置いた護り刀に手を伸ばしかけた。だが、消えていた。 「……どこに」  その時、閉まっていた妻戸が開いていることに気がついた。妻戸の向こうには中庭が見え、弓形に反った痩木が目についた。枝葉に隠れるようにして白い花々が可憐に咲いている。小さな蕾も見える。それは白く花を咲かせた。  義経は立ち上がりかけて、よろめいた。御簾の中に安置していた妻と子の亡骸が失せている。兵士たちの怒号も全く聞こえない。  躰が熱くなってきた。義経は息を荒げ、辺りを捜し回った。儂は自害するというのに。奥方も姫君も家来たちも死んだ。儂も死ぬ。弁慶が待っている。だが、まだ腹を切ってはいない。護り刀はどこだ。どこにある。  耳元で、ささあっと風が散った。 「裁きは下った。あの男と同じ、無間地獄だ」  一斉に火焔が四方に飛んだ。天上や壁や床に火が這いずり、一瞬のうちに室内は業火に包まれる。  義経はあっと驚いた。声の主をようやく思い出した。  そこで、目が覚めた。
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