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「殿、お呼びでございますか」  十郎権頭兼房は足音も立てずに、持仏堂へ入って来た。鎧姿である。泰衡の軍勢を相手に果敢に戦っていたとみえる夥しい血糊が、鎧の表面に残っていた。館には僅かな手勢しかいない。平時であればすぐに参上しただろうが、今は異なる。髪が白くなった痩身の老兵は、生真面目な風貌を変えずに御前へ控えると、平伏した。  軍馬の嘶きや兵たちの喚声が外から聞こえてくる。敵が周辺まで迫ってきたのだ。それは己の郎党の討ち死を意味している。  義経は間近の昂ぶりとは反対に、静かに告げた。 「ついに自害するべき時がきたようだ。ついてはどのようにすれば良いと思う」  中庭に咲いている花は何色かと問うような穏やかさだった。  兼房は鈍々と頭をあげた。老いた目元に涙があった。 「……左様でございますれば」  言葉も濡れていた。 「……佐藤兵衛が京の都で切腹した時の有様を、民衆は後々まで褒め称えております」 「そうか、ならば造作もない」  義経は頷いた。佐藤四郎忠信は奥州を去る時に秀衡から与えられた家来である。兄の三郎継信共々、よく仕えてくれた。三郎継信は平家の軍勢との屋島における戦いで義経を庇って討ち死にし、四郎忠信は義経が鎌倉に追われ吉野山へ逃げ込んだ時、主君の代わりとなって追っ手と戦い、その後都へ上がって密かに隠れていた処を襲われ、奮戦の末に自害した。  義経は瞑目した。身代わりとなった兄弟の俤が道を辿るように思い出される。とっさに前へ立ち塞がって、己に放たれた矢を首に受けた三郎継信。物静かな男だった。弟の忠信は必ず奥州へ下向させようと思っていたが、吉野山で自害しようとした己を諌め、結局置き去りのような形で残してしまった。兄に似て口数は少なかったが強靭だった。命を張って仕えてくれた兄と弟だったが、自分はそれに報いることなく死ぬ。  ――勇猛果敢な兄弟でござりますぞ。  佐藤兄弟をそう褒め称えて、平泉を出立する自分を見送ってくれた老爺がいた。  ――まことに、この地へお連れすることができて、(それがし)は幸せにございます。  頬が緩むほどに笑みを刻んで、金売り吉次が自分を見上げている。  ――ご武運を日々お祈りしておりますぞ、遮那王様。  義経は懐かしそうに微笑んだ。生前、吉次は元服して九郎義経と名を改めても、時折遮那王という名を口にした。 「……許せ」  少しの後、義経は目を開いた。  「疵口が広いのが良いのだな」  懐へ手に入れようとして、思い出したようにため息をつき、肩を落とした。 「愚かなことよ」 「如何なされました」  素早く兼平が伺う。義経は若さが削げ落ちた面に、自嘲を浮かべた。 「護り刀をなくしていた……鞍馬寺へ居た頃に、別当殿から頂いた大切なものであったというのに……」  肌身離さず大事に持っていた護り刀を、奥州へ逃げ落ちてから無くしていた。懐に仕舞っていたはずなのに、いつの間にか見当たらなくなってしまったのである。 「殿、恐れながら……」 「何だ」  義経はあっと口を開いた。組んだ足の手前に見慣れた短刀があった。  護り刀だった。  なにゆえに、と訝りながら手に取ると、馴染みのある感触が肌に触れる。鞘尻(さやじり)は唐草模様に(とう)を巻き、竹輪を互い違いにあしらっている。紫檀(しだん)を貼りあわせた柄を握れば、無くしたのは偽りで、ずっとそうで在ったかのように感じられた。 「……死出の共をするために現れたか」  義経は優しく笑った。それから傍らの御簾に目をやった。中では妻子が死んでいる。その亡骸を確かめて、護り刀を握りなおした。 「儂が死んだら、すぐに館に火をかけよ」  兼房は無言で頭を下げた。  生暖かい風が義経の首筋を撫でた。奥の妻戸が半分ばかり開いている。兼房が入ってきた戸口だ。その向こうには小枝の先が覗いていた。細い枝には白い花々が見事に咲いている。卯木の花だ。  義経はまるで初めて目にするかのように瞬きもしなかったが、やや待って首を傾げた。 「……そういえば、昨夜不思議な夢を見た」  護り刀を手に、呟くように言った。  兼房がつと顔を上げる。 「夢でございますか」 「そうだ……夢にも白い卯の花が出てきた。儂は死に際の老人で、鬼が地獄へ引きずっていったのだ。お前がこの地を変えたと叫んで……」  額に手を当てた。とても怖ろしい光景だった。 「儂は病に冒されていた。ひどい咳をしていて……血を吐いた……」  床に散らばった赤い血が、妙に生々しかった。 「……鬼は、儂を遮那王と呼んでいた」  どこかで聞いた覚えのある声だった。義経は深々と嘆息をついた。あんな夢を見るとは。自分にも鬼が迎えにきている。その鬼どもは夢とは違い、人の姿をしていて、館の外で己の死を今か今かと待っている。 「目が覚めて、夢であって良かったと思ったが……」  苦く笑った。目覚めても、逝く先は地獄だ。 「つまらない話をした。自害しようとする時に、夢の話など」  いいえ、としゃがれ声が遮った。 「夢ではありませぬ」  義経は兼房を見た。人がよく忠実な心根が全身からこぼれ落ちていた老兵は、石のような硬い顔面になっていた。  兼房、と義経は口にした。なにゆえに、怖ろしい顔をしていると。  老兵は指を動かした。義経はその先を見ると、妻戸があった。白い卯の花が、血のように真っ赤に染まっている。  否、それは花ではなく火焔だった。  血の色をした火群が、揺らめいている。  義経は黙ってそれを見続けた。一面が真っ赤になっている。どこかで目にした情景。浪の上か。畳の上でか。いや、違う。 「夢ではありませぬ、遮那王様」  しゃがれた声が、再び告げた。  義経は驚愕する。兼房が端座していた場には、今や鬼がいた。  鬼は昨夜の夢で見たままの姿をしていた。まだ夢の続きを見ているのかと、義経は狼狽する。しかし鬼は恐ろしい形相をしていながらも、黙って床に腰を下ろしている。 「……これは一体」  鬼は心得たように口を大きく割いた。 「お迎えに参りました、遮那王様」  三度、しゃがれた声が話す。  義経は訝った。聞き覚えのある懐かしい声だと思った。  夢の中ではひどく荒々しかった鬼は、静かに義経を見つめている。まるで見知った者であるかのように。  義経は手の内にある護り刀を強く抱きしめた。己はもう腹を切って、あの世へと旅立ったのだろうか。それとも、 やはりこれは夢なのだろうか――  炎に包まれた周囲は次第に広がっていく。それを目にしながら、夢での光景がめまぐるしく浮いては沈んでいく。  ああ、そうか。  やがて義経は漠然とわかった。声の主も。 「儂は無間地獄へゆくのだな、吉次」 「もう、参っております」  金売り吉次は哀しそうに平伏した。  夢は終わらなかった。
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