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一、憧れ
地獄太夫が死んだ。
それも花魁道中のただ中で、弾丸に胸を撃ち抜かれて。
吉原には持ち込めぬはずの銃を、下手人はなぜ持っていたのか。指示を下したのは誰か。
下手人は拷問の果てに舌を噛み、ついに黒幕は捕まらなかった。
前代未聞の凶事。それは時と共に風化するはずだった。
だがその四年後に起きたある心中事件をきっかけに、地獄太夫の因縁の死は長く吉原に語り継がれることとなる──。
**
春灯りの色街を、十六夜の月が照らしている。
吉原の大門をくぐり抜け、待合の辻を通って西に曲がった江戸町一丁目にずらりと並んだ妓楼の中に、大見世・紺屋は堂々と楼を構えていた。
その上り框に、支度を終えた花魁と若い衆が集い合う。
玄関土間に並んだ高下駄の鼻緒に花魁の小造りな足の先が滑りこんだ。
「……すこし痛い」
あえかな訴えに、五人の若い衆の手が素早く動く。
昨夜は雨の道中で、下駄がぬかるみに取られないよう鼻緒をきつく締めていたから、縮緬が乾いて余計にきつくなったのだろう。
十の手が奪うように鼻緒の結び目をほどき、よれた鼻緒を掌の中に揉み整えていく。
「……ありがと」
華奢な声につられて見上げれば、鈴を張ったような花魁と目と目が合った。
おしろいを叩いた頬に、紅を差していない薄い唇。額に掛かった髪の色は瞳と同じ稀有な薄茶色だ。若い衆たちの手が止まった。
見るものすべてを骨抜きにして仄暗い波へと誘う、一種人間離れしたその花魁は、唄えば花の咲く美声から迦陵頻伽と称された。
花魁になるために生まれてきたような美少年。
そんな陳腐な謳い文句を、花魁自身がどう受け止めていたのかは誰にもわからない。
平素の彼は、どこを褒めても、悪戯な誘いを掛けても、心ここに在らずの風情にただ、微笑むだけであったのだから。
見張り番の妓夫が門を開けると、花魁は手前に一人立ちしたばかりの振袖新造と、左右に見習い童の禿、後ろに番頭新造、世話役の遣手、若い衆、妓夫を引き連れて、賑わう仲の町通りにその一歩を踏み出した。
目抜き通りに豪華絢爛な花魁道中があがればたちまちに黒山の人だかりだ。
「すげえ髪の色じゃねえか。誰だいあの花魁は」
「ああ、おめえ茶屋ばかりでコッチは初めてか」
「おうよ。江戸中の蔭間がみぃんなお奉行にしょっ引かれて、とうとう大門に閉じ込められたっていうだろ。馴染みのやつが元気にしてるか気になって」
「そんならこっちじゃなくって、ずうっとあっちの河岸の方だろ。ま、生きてりゃの話だが。おっと、んなこたぁいい。あれはな、この男吉原きっての大見世、紺屋四郎座右衛門がお抱えの人気花魁、淡月格子だ」
噂話が合図のように、ばんと朱色の傘が咲く。
長柄の傘がそっと差し掛かれば、淡月の名に恥じぬ木蘭色の結い上げた髪にたなびく後れ毛が、八重にひろがるべっ甲かんざしが、朱色の傘にいよいよ映えた。
わっ、と大きな歓声が上がった。
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