一、憧れ

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 浅草の荒れ野を切り拓き、そこに男吉原が設けられて()や一世紀近くが過ぎようとしていた。  建設のきっかけとなった出来事は、明暦二年に江戸幕府より移転を命じられた女吉原が、翌年に大火災に遭い全焼したことに起因する。  浅草の新たな土地に新吉原を建設するに合わせて、隣接する荒地には男吉原を望む声が各方面から上がり、それが幕府に通じた。  望まれた理由は二つある。  ひとつには、蔭間遊びが女のそれと同様の文化であるにも関わらず、これまで公儀に認められた施設がなかったこと。  それゆえ江戸市中のあちこちに私男娼が点在し問題になっていたのを、吉原の一箇所に集めて風紀を取り締まらんというのが、二つ目の理由である。    集められた者たちはほとんどが小見世(こみせ)河岸見世(かしみせ)、つまり最も花代が安く、衛生面に不安のある一帯に押し込まれた。  紺屋のような一級の大見世は吉原全体の一割にも満たない。中見世も似たり寄ったりである。  習慣の多くは女吉原と似通うが、異なるところも多く、その最たるものは、花魁が道中の際に踏む『歩み』であった。  男吉原においては、吉原伝統なる内八文字の歩みを今に継承している。対する女吉原は、新進気鋭の丹前勝山の教えに従い、外八文字に歩みを変えた。  女吉原にて徐々に廃れつつある遊女の階級たる『太夫(たゆう)格子(こうし)(はし)』の三呼称も、男吉原(こちら)ではまだ生きている。  働き手が女ではないゆえに、遊女、女郎の呼び名はない代わりに、一級の太夫から端下の者まで、男娼はみなまとめて『花魁』と称された。  男が年季奉公を行う性質上、無論そのつど通行証を得なければ大門を出られぬ。妓楼からしばしば出る病人やら死人の扱いにも、女吉原とは異なる点がある。  年季明けの歳は女と同様に二十七ながら、旬の短い男は、二十までに人気が出なければだんだんと河岸見世に追いやられていく。  それを見越して廓を取り仕切るお内所(ないしょ)に早くから取り入り、首尾よく花魁の世話人である遣手(やりて)にのし上がったり、新たな見世を持つに至った逞しい者たちもいる。  買いに来る客は男女様々で、(かんざし)や櫛を売る小間物(こまもの)屋の女将や娘たちが店番そっちのけで背伸びをし、 「ねえ、あの花魁、いつ見てもちっさくてかわい」 「あの子は禿の頃からああさ。初めて見たときゃ、南蛮の血が入ってるかと思ったが」 「花魁も良いけど、あの傘差し、役者みたいに綺麗な顔だねえ」 「朔二郎だろ? 傘差しにしとくのが勿体ない色男さ。見ろ、新造がかすんじまってる。あの子が端にでもなってくれたら、あたしが買いに行くのにさぁ」  女将が安い煙草をふうとやれば、白い煙はかき消えもせず、ゆると流れて目当ての男の首に巻きついた。
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