終章、沙羅双樹の花の色

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 朔二郎は襟元を探ると、首にかけていた守り袋の中から小さく折りたたんだ和紙を取り出した。  ぴんと張って淡月に見せつける。  そこには『朔』の一文字が記されていた。 「これ、覚えてるだろう? 前におまえが俺の為に書いてくれた文字。俺この字を見ながら、何度も何度も字の練習をしたよ。だけどちっとも上手くならなかった。いつも線が曲がったり、月の方が大きくなったりして、ぜんぶ不恰好で。でもそれで分かったんだ。おまえだって、本当に、凄く努力したんだって。廓に流れて、たった一年かそこらでこんなに上達しようと思ったら、ろくに寝る間もなかったはずだって」 「……だったら、何だよ」  「おまえは仇を討つためだけに生きてきたと言ったけど、本当にそれだけだったのか? 自分を捨てて、ただ復讐のためだけに生きてるような奴が、こんなに綺麗な字を書けるようになるなんて俺には思えない。おまえはきっと、自分でも気づかないうちに、本気で芸事を身に付けてきたんだ。誰のためでもない、おまえが、おまえ自身でそうしたいと思ったんだ」 「……何を」 「──生きたいと思ったんだ! おまえは上達していく自分が嬉しかったはずだ。小さくたって、生きることに喜びを見つけていたんだ。ずっと、いつだって、おまえはちゃんと生きていたんだよ。違うって言ったって無駄だぞ。この字がぜんぶ証明してるからな」  「そん、──」  言いかけた唇が、ふいに動きを止めた。生気を失くしていた身体がにわかに震え、淡月は自らの肩を抱いて嗚咽を漏らした。 「それでもおまえが、おまえ自身を許せないというのなら、その罪ごと俺が負うから。全部負うから」  蒼白い頬を掌で温める。淡月の瞳は揺らいでいた。けれどそこには、確かに朔二郎の姿が映っていた。   薄い唇はひび割れて乾いていた。その痛々しい傷口を労わるように舌を触れ、熱い口づけを贈った。 「……おまえは本当に頑張り屋だよ。だけどこれからは、もう少し人に甘えた方がいい。おまえ、いつもすました顔して、たった一人で強がって。本当はちょっと風邪引いただけで俺を引き止めるくらい、寂しがり屋で、弱いくせに」  あやすように囁くと、引き結ばれた唇がぶるぶると震え出した。  「朔二郎、おれ……」 「うん」 「俺は……」 「うん」 「俺ほんとは、ずっと、だいぶ前から──」 「うん」 「…………頭痛い!」  わっ、と胸に飛び込んできた頼りない体を受け止める。子供のようにしがみつくその背中を抱きしめながら、朔二郎はこっそりと笑った。  格子窓から吹き込む桜がふたりの上にひらひらと舞い落ちた──。    終
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