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ある花冷えの夜のこと。
仕事を終えた朔二郎は、店番の妓夫を手伝い道中の調度品を片付けていた。
「久悟さん、それじゃ俺はこれで」
「ああ、風邪引くなよ」
「久悟さんも」
年上の妓夫にぺこりと頭を下げる。ようやく長い一日が終わった。あとは肺を患って長く床についている友人の白菊に、買ってきた丸薬を早く飲ませてやろうと思い土間に足を向けた時、ふと、中年の男が童と手を繋いで歩いて行くのが見えた。子連れの客など珍しいことだ。
「こんな所に年端もいかない子供を連れてくるなんざ、無茶な親父だ」
久悟は眉をひそめたが、朔二郎の胸はずきりと痛んだ。
「そうですね……でも俺の父も、びっくりするようなことを平気でやるような人でしたから」
「へえ?」
たとえ非常識だと罵られても、ああしてあっけらかんと仲良く生きる父子が朔二郎には眩しかった。
もしも自分が金持ちの子で、父が生きていたなら、あの童は自分だったに違いない。そう思った。
飢饉の後の疫病で、父のみならず家族が全部あの世に逝った。
愛し愛された記憶が朔二郎の心を支えても、どうしようもない寂しさはなお拭い切れずに澱を生む。
家族連れなど珍しい吉原だけに、それは強烈な地獄を映し出した。
「ちょっと、羨ましいです」
「……そうか」
「それじゃ」
暗い足取りで玄関土間に戻ると、何やら階段の上から騒がしい物音が聞こえてきた。
「後生ですからお気持ちを……ギャッ!」
「あ、どう……」
どうしたんですかと問う暇もなく、階段を古参の喜助がズダダダダと転がり落ちてくる。
「どうしたんです⁉︎」
「おおいってぇ……! それよお、淡月の客が暴れててよぉ、くそったれ」
「暴れるって?」
「新米の喜助がヘマしやがったのよ、客の布団を他のと取っ違えて」
「それは……!」
それはえらいことだ。朔二郎は青ざめた。
紺屋の格子は道中を歩いて揚屋へ入り、そこで客と一夜を共にするのが普通だが、時には妓楼の私室に招かれることもある。
訪れるのはみな富裕層ゆえに客はめいめい自分専用の布団をあつらえるが、それを客の世話役の喜助が誤って、他の客の布団を敷いてしまったというのだ。
恥をかかされた客が激怒するのも無理はない。
古参が転がされたのだから、新米はもう二階でのびているのだろう。
とくれば、次に怒りの矛先を向けられるのは淡月自身かもしれぬ。
凶賊に傷つけられるかもしれないのだ、あの足を。
カッと頭に血がのぼった朔二郎は、息も忘れて一足飛びに二階へ駆け上がった。淡月の部屋はつきあたりだ。飛び込めば仁王立ちの巨漢が、今まさに淡月に迫ろうとしていた。
座り込んで巨漢を見上げる淡月の口はぽかんと開いている。何が起きたのかも分からぬ風情だ。
客が煙草盆を蹴り飛ばし、淡月に襲い掛かった。
「……やめろ!」
朔二郎は迷わず巨漢の腕を押さえ込んだ、腕っぷしには自信があった。
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