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第5話
それから半年、僕たちは未だにカップルとして過ごしている。
トウカから「好き」「愛してる」という言葉は、いまだに聞いていない。
でも僕はトウカと過ごす時間はとても楽しく、とても安らぎ、欠かせない時間となっていた。
そして今日、僕たちは海浜公園に来ていた。
天気の良い初夏の昼下がり、何をするわけでもなく、降り注ぐ日差しを浴び、少し生ぬるくなり始めた風を受けながら、並んでゆっくりと歩くデート。
そんな他愛のないデートも、トウカと二人だと特別な時間になっていた。
見慣れた海浜公園が、初めて見た景色に見えた。彼女が美しいとか、キャンパス1の美女だとかそういうことじゃなく、一緒にいる空気、時間、そういったものがとても愛おしくてそしてかけがえのないものだから、見慣れた景色でさえ特別なものに変わるのだと知った。
歩き疲れたら、ベンチに腰掛け、少しのどが渇いたらオープンテラスのカフェに立ち寄り傾き始めた、オレンジ色の太陽を二人で眺めたりした。
特別じゃない景色の中の、特別な時間。交際して半年経ったのに、週に一度はデートをしていたからもう何度もトウカと過ごしているのに、それでも僕の中ではこの特別な時間の価値は下がることはなかった。
完全に陽が落ちて、ゆっくりと空が灰色から黒に移り変わっていく。
都会…というほどでもないけれど、其れなりに明かりのある街では月と1等星以外は完全に脇役に成り下がってしまう。
街灯と街灯の隙間、ベンチも何もない、ほんの僅かな空白…トウカは繋いでいた手を軽く引いた。それにつられて僕の体はトウカの側に引き寄せられる。
トウカは黙っていた。黙ったまま少しうつむいていた。
女性にしては少し高めのトウカの頭が僕の顎先で揺れている。
「えっと…と、トウカ?」
いつもと違う雰囲気に、戸惑い声をかける。
トウカは何も答えず、更に一歩、僕に近づく。そして、ためらいがちに僕の背にその両手を回してきた。
「と、トウカ…」
予測できないトウカの行動に、僕は再度疑問の混ざった声で呼びかける。
トウカの顔が、ゆっくりと持ち上がり、そしてトウカの黒曜石の瞳が、僕の目をまっすぐに見る。
そしてその瞳が、ゆっくりと閉じられ、背中に回された手に少しだけ、ほんの少しだけ力が込められる。
ここまでされて、何もわからないほど、僕も朴念仁じゃない。
突然のことでの戸惑いと、トウカとそれをするという予想の出来ない事態と
初めてが故の緊張とが、僕の心を激しく乱し、心臓が脈打つ音だけが頭の中に響く。
でも何故か僕の腕は、本人の思考に関係なく、ゆっくりとだがトウカの細くて頼りない体を抱きしめる。そして僕の視線は薄闇の中でもその存在感を、はっきりと示しているトウカの唇から離れることはなかった。
ゆっくりと、引力に導かれるように、僕の唇はトウカの唇に近づき、そして数秒後にそっと触れ合った。
(柔らかい)という感想と、トウカとキスをしたという事実と、少し震えてるトウカの体の感覚に、全てが支配されて、僕の体は完全に動きを止めてしまった。
体だけじゃない、脳も機能を停止したかのように何も考えられなくなる。
体の中に生まれた、微妙な熱と、高熱に浮かされたかのようなぼんやりとモヤの掛かった頭と、すべての神経が集中してしまったのではないかというほど、敏感にその柔らかさと弾力を伝える自分の唇以外の全ての機能を失ってしまったかのようだった。
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