第9話

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第9話

時計の針が22時をさした頃、ようやくトウカはそろそろ出ようかと言った。 店を出た後、トウカは強い力で僕の手を引き、僕が何を話しかけても答えも振り返りもせず目的地が有るかのようにハッキリとした足取りで歩いていた。 「ねぇトウカ、何処へ行くの。どこに行きたいの。」 何度も問いかけるが返事はない。ただ強く手を引かれどんどん進んでいく。 僕はトウカの目的が分からないまま、だけど抵抗することもなくその後ろを歩いていく。 やがてネオンの輝く一角で、トウカが足を止めた。 手は繋いだまま、でも僕の方を振り返ることなく。トウカは言った。 「私ね、今のままじゃ嫌なの。アレほど安らげる時間だったのに、今はどこか落ち着かないそんな現状が嫌なの。だから、覚悟を決めたから。臆病な私のせいでタツキが踏み込めないならタツキとその怖さを乗り越えたいから…そして前みたいにずっと居られるようになりたいから戻りたいから」 ゆっくりと僕の方を振り返り、不安に揺れながらでも強い光を宿しためでまっすぐに僕を見る。 「……いいよ。…ね、入ろ…」 消え入りそうな声でそういう。 ホテルの前で、トウカは、そう言った。   かつて、男に襲われかけて、男性に恐怖を覚えた。 襲われかけたから、不意打ちのスキンシップに恐れを感じてしまうようになった。 それが二人の間に、小さな、しかし軽視することの出来ないしこりを生み出した。 だからトウカは、恋人である僕とそれを乗り越えるために、抱かれることを選んだ。 体を重ねるということに恐怖と嫌悪を感じてしまうこと、それを恋人と行う 愛の儀式という名目に上書きしようと、そう言っていた。 傷ついた恋人が、それでも必死に示そうとした誠意。男が苦手で、怖くて それでも僕と居ることを望んでいるんだと示そうと必死なトウカ。 だけど、ゆっくりと毒に侵され始めていた僕は、そこでも間違ってしまう。 自身のなさと化学反応を起こした毒は、僕が気づかないうちに、僕が思っている以上に僕の心を侵食していたのだろう。 「トウ…カ?…僕は、それは…違う気がするんだ…。」 声を絞り出す。 おかしい。 トウカの思いをしっかりと受け止めた上で、真剣に考えて答えようとしているはずなのに何故か僕の口は、僕が思っている言葉とは違う言葉を発している。 「そんな、無理に乗り越えないといけないものは、正しくないと、僕は思う。もしトウカが心の底から、僕との時間を大切に思ってくれているなら。僕のことを好きで居てくれるなら覚悟を決めたとか、そう言う言葉じゃないような気がするんだ。自然とそうなるんじゃないかって僕はそう思うんだ‥。」 一息に、そこまで話すと、一度だけ深呼吸して言葉を続ける。 「トウカのしようとしていることは、純白のキャンバスに少しついてしまった灰色の絵の具を見えなくするために、黒い絵の具で塗りつぶそうとしていることみたいで…」 僕がそこまで言った時、それまで強く握られていた手が、ゆっくりと解けた。 まっすぐに僕を見ていた瞳は、ゆっくりと地面へ向けられ、トウカはいつの間にか僕に背を向けていた。 「そう…なの、かな。」 ポツリとトウカが呟く。 「私、間違ってた…の…かな…」 トウカは微動だにしない、ただ静かに紡がれるトウカの声が、いつもは穏やかな気持にさせるトウカの柔らかくて可愛い声が…凍てついていた。 「覚悟…決めて、勇気を振り絞って…それって、間違ってる…のかな…。好きな人に、一生に一度の大切なものを贈りたいって思うこと‥それを決めるために覚悟をすることって…間違い …なの、かな。」 力のない声…だった。呟くような囁くような、小さな声だった。 「他の…人は、一生に一度の、証を立てることに覚悟なんて、しないで…デートでする会話のように挨拶するみたいに、自然にいつの間にかプレゼントできるものなの…かな…。」 そこに、僕の知っているエンドウトウカ…は居なかった。 明るくて、誰からも好かれて、いつも笑顔を浮かべているそんな女性は居なくなっていた。 「タツキくん…純白のキャンバスに少しついてしまった灰色の絵の具…って、言ったよね。私もう…汚れちゃってたんだね…タツ……、ミドウくんからみたら、私もう汚れちゃってたんだ…あは…あははは…あはははは。私の大切なものって、もうその時、失くしちゃってたんだ。」   これが本当に、あのエンドウトウカなのだろうか… 今僕の眼の前に居る女性は、暗い闇のような重く冷たい空気を発して、怨嗟の声を上げている。 チガウソウジャナイ、アレハタトエバナシデ、トウカガヨゴレテシマッタナンテオモッテイナイ   言葉が出ない。 足が震えて、奥歯がガチガチと音を立てている。何か言わないとと思えば思うほどに喉に何かが詰まったかのように、言葉が出てこなくなる。 僕は決定的に何かを間違えてしまったんだ。それだけはわかる。しかし僕の中に、その後をどうすればいいかなんて知識は存在しなかった。そして初めて見るトウカの姿が、僕の全ての動きを止めてしまっていた。 「ごめん…ごめんね…ミドウくん…わた…わたし…。」 トウカは最後まで言葉を続けることが出来なかった。不意に顔を上げただただ悲しみだけを貼り付けて涙を流した顔を、無理やり笑顔で歪めて、次の瞬間には、走り出していた。 止める暇もないほどに、止められることを完全に拒否した背中で。 トウカの姿がネオンの明かりから、路地の闇へを消えていく。 僕は足が地面に縫い付けられたかのように、その場から一歩も動くことが出来ずに、ただただ間違えてしまった事で得られた絶望を噛みしめるしか無かった。 董香が僕を「タツキ」ではなく「ミドウくん」と読んだことが悲しかった。
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