第1章 わたしに天使(男)が舞い降りた

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こんな極端な地形になったのは、戦前にここが大規模な採石場だったからと伝えられている。当時の人間はもう誰も残っていないから、ただのまことしやかな推測というか伝説の類かもしれない。あんな聳え立つ岩盤、どんな機材があれば人間の手で削ることができるんだ? 今では蔓延った植物がすっかり覆い尽くしてしまっていて、地肌もところどころ露出してるだけだからその形状をくっきりと全て確認することはできない。 でも、崖の上の縁がぐいと前に迫り出していて、壁が全体的に反るような形で聳え立ってるのは見て取れる。つまり、おそらく50〜60m級の海に迫る岩壁の、そこだけぐるりと抉り取ったようになってる部分に閉じ込められた形で細々と最後の人類が棲みついて命を繋いでるってわけだ。 まあ、そんな忘れられたような取り残された場所だから。ここに避難してた人たちが敵にも気づかれず攻撃を避けて、無事に生き残れた。って言えばそれまでなんだけど…。 天然のシェルターみたいな土地だもんなぁ、と海辺に立って足裏に砂地を感じながら今来た集落のある方向に振り向いて、背後にぐっと迫るようにここを囲んでる断崖をつくづくと眺めた。 生い茂ったざわざわの緑に覆われた崖は目に美しく感じるけど、とにかくでかくてすごい圧迫感。見るからにここからは誰も外に出られないよ、と問答無用で視覚に訴えてくる。 かと言って、海は汚染されてると考えられてて、皆長い時間水には入りたがらないし。漁をするための船も手漕ぎなので、そう遠くには行けないしわたしの知ってる限り、海伝いに外を目指した人もいない。 何よりここより住みやすい土地が、滅んでしまった外の世界にあるとは。多分誰も本気で希望は持てないでいるんだと思う。だって、最低限必要なものは。ここでなら大体手に入るわけだし。 もう全てが終わってしまった世界で未だにこんなに恵まれてる土地、他にあるとは思えないんだから。中の住人が出て行きたがるどころかむしろ、万一外に生き残ってる人がいたら。存在を知ってさえいれば間違いなく、皆ここを目指すんじゃないかな…。 そんなことを徒然に考えながら崖の上の方に漠然と視線を向けてたから。…タイミングがタイミングだったので、一瞬てっきり何かを見間違えたのか。それとも、わたしの脳内で突如何らかの理由で変な作用が起こって、シナプスがちかちかと誤発光して見せた幻覚か何かかと思った。 だって、あんなもの。…わたしのこれまでの十八年間の人生で。この目で見たこともないし、見ることがあるかも。と想像してみたことすらない…。 「…虹?」 誰も聞いてないってわかってるのに。独りでに口から呆然とした呟きが溢れ出る。 もちろん、虹なんかじゃない。それはわかってる。あんな形の虹は存在しない。七色のグラデーションのやけに鮮やかな色彩が濃い青空に映えて、思わずそっちに気を取られてしまった。 どちらかと言えば形状的には雲。…いや、あんな雲だってやっぱりないよ。横に細長くて、幅の細い長方形。それで海から吹き上がる風を受けて、真ん中がぐっと持ち上がり大きな弧を描いてる。…空気が入ってる、みたい。あれって風船? そして。 わたしの口から信じられない、といった呻くような響きの声が漏れた。 「…人だ」 そのことに気づいた瞬間。あまりの事態に怯んで一気に心臓がばくばくし始めた。 …いや、まだわからない。風船の端から端にと繋いで渡したロープの先に、ブランコみたいに乗ってるあの影。 逆光でよく見て取れない。形や大きさから言うと、確かに人間っぽい。でも確信は持てない。 もしかしたら等身大の人形かも。けど、そうだとしても。 どのみち崖の上から何らかの意図を持ってあれを飛ばした人間が存在する。って事実には変わりないわけ、で…。 外の世界の人間。…て考えたら全身を見えない手でざっと撫でられたみたいにぞわり、とした。これまで感じたこともない感覚。 あろうことか、その巨大な風船はすうっと風に乗って、流れるように滑空してこちらに向けて降りてくる。頭上を通り過ぎて海の方へと抜けて行く気配はない。もっとも海面に降りてもそのあとどうしようもないだろうから。…砂浜への不時着を、目指してる? 「…うわ」 やば。 一人で佇んでる分には浜辺は広いけど、真上にあんなものが来たらどうしようもない。慌てて全速力でそれが降り立とうとしてる地点から走って遠ざかろうとする。 物心ついたときから今まで記憶にもないくらい、本気で全速力で走った。焦ると白砂に無茶苦茶足を取られる。悪夢の中で怖いものから逃げるときに似て、びっくりするほど足が進まない。 頭上すぐそこをそれが掠めるように越していった。 思わず反射的に身を守ろうと背中を屈めながら、視界の端でちらとその人型の影が動くのを察知して。ああ、やっぱり生きた人だ。と、やけに現実感のない痺れたような脳の中でぼんやりと認識したのを覚えてる。 …背後でずざぁ、と砂が荒れる大きな音がしたその瞬間。わたしは自分がとりあえずあれの下敷きにならずに済んだことに安堵してへたりと腰を抜かしてその場に座り込んだ。
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